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0089村井城(長野県) [城印象記]

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長野県松本市芳川小屋の村井城を紹介します。(2014/6訪城)



JR村井駅の近くの住宅地になります。路地の角に説明版がありました。

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史跡 小屋城跡

 所在地 松本市大字芳川小屋
 別称  村井城(むらいじょう)
 年代  中世

この館を創設した村井氏は官牧埴原牧の牧人埴原氏の系統といわれる。村井氏は鎌倉時代から戦国時代にかけて、現在の松本市中山・内田・寿・芳川・塩尻市広丘・片丘にわたる一帯を支配した豪族である。埴原城を要害城とし、この館(村井城)を中心にして勢力を張っていたといわれる。
天文17年7月(1548)甲斐の武田晴信(信玄)が筑摩郡へ侵攻を始め、小笠原長時と対戦するようになると、村井氏は小笠原氏に属し、この館を府中の防衛拠点として固めた。しかし小笠原氏が塩尻峠の合戦に敗れると、ともに戦った村井氏は滅亡した。
武田晴信は同年10月直ちに村井城の鍬立普請を指図し、府中攻略の前進拠点を築きあげた。続いて天文19年7月、武田晴信は筑摩郡、安曇郡へ本格的な侵攻をはじめた。10日村井城に到着、13日近隣の熊井城を攻め落とした。15日にはイヌイの城を攻め落としたが、小笠原の本城である林城や深志城などは自落してしまった。晴信は19日村井城から深志城に移り、すぐさま鍬立普請にとりかかり侵攻拠点を完成した。
それとともに武田氏の村井城はその使命を終え、以後安曇侵攻の中継点となった。
江戸時代の信府統記の松本古城記(享保9・1724)には小屋村屋敷構とし、木曽義仲の臣手塚太郎光盛居住の地と伝えると記載している。

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この説明版のある位置は城の端というような場所で、泉龍寺方面に向かってが城域になります。付近には一部土塁が残っていた、痕跡(堀)があったと思われるようなところもあったようですが、どうやら今はほぼ消滅してしまっているようです。

埴原城はここから東北東6kmの距離になりますから、逃げこむ詰めの城にしては、遠いです。当時は、いざ戦いという局面を迎える時も、時間があったのでしょうね。

村井城にしても、埴原城にしても、かなり立派そうで、これは村井氏の実力がかなりあったと思われます。それとも、その後の武田氏の改修に惑わされているのかな。

滅ぼされてしまった文化を探るような楽しみが、信濃の山城と館にはあるようです。

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