0437八丈城山城 [城印象記]
人の生活がある、いたるところに城ってあるものである。八丈島でも何かないのかと探ったら、城山が見つかった。城山では、ちょっと扱いづらいから、とりあえず八丈城山城と呼ばさせてもらおう。
「伊豆諸島を知る辞典」の八丈島で、中・近世の歴史の項目に城山とある。
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城山は、源為朝の城跡という言い伝えがあるが、戦国時代に小田原北条氏、三浦半島の三浦氏、神奈川(現在の横浜)の奥山氏の三氏が争った時の、城跡だったようである。八丈島は、古くから絹織物の産地としての存在価値が高く、鎌倉時代は幕府の直轄地、室町時代は関東管領上杉氏の支配下で神奈川の奥山氏が支配していた。戦国時代に入ると、奥山氏が坂下(大賀郷と三根)と樫立・小島を、北条氏が末吉・青ヶ島を、三浦氏が中之郷を支配したが、小田原北条氏の勢力が増大し、最終的には北条氏が覇者になったのである。永正一三年(一五一六)、北条氏の円明なる武将が十二艘の船で押し寄せ、奥山氏と合戦。ここはそのころの奥山方の城跡であるという。空堀が残っている。
大賀郷・横間ヶ浦下り口の右手小山
『城山遺跡発掘調査報告書』
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戦国期に、関東の北条氏・三浦氏・奥山氏が、八丈島でも争っていることに驚いた。もうそれほど、身近な土地だったということなのだろう。
そして、八丈島の絹織物は、戦を起こすほど特別な魅力ある物産だったんだろう。
それにしても目を惹いたのは、「空堀が残っている」という記述。せっかくのチャンス、これは、是非とも訪れなければ。
しかし、場所にしても、きちんと特定できない。もう少し情報が欲しいところ。『城山遺跡発掘調査報告書』が出ているくらいなら、地元ならもっといい情報が掴めるのではないか。そう期待して、まずは八丈島歴史民俗資料館を訪ねた。
展示物を順番に眺めていくと、城山のことを記した案内もあった。
(館内の撮影はOKだった。)
意を決して城山のことを訪ねると、城山の地名は知られているとのこと。しかし、展示以上に詳しいことはわからないという。小山だが登るのは難しくて、藪に覆われているそうだ。
閉まってあった資料をいろいろひっぱっり出してくれた。
どうやら城山のことは確定的になったが、詳細は深まらず。『城山遺跡発掘調査報告書』に出会えなかったのは残念だった。仕方ない。
場所はこちら。
この中央、標高81mとある山が城山である。
周回道路を隔てたところには為朝神社があった。
周回道路からの城山はなだらかな山に見える。けど、木々が鬱蒼と茂っているようだ。
最大でも81mの比高なのだ、何とかなる。しかし、木々に覆われて、ほどよい登り口が見つからない。周囲をうろうろと歩き回る。
決心がつかず海岸まで降りてきてしまった。
それほどの藪と斜度なのだ。
けど、やっぱりここしかないと潜り込んだのはここ。電柱のあたりから突入した。割と海岸に近い地点だ。海岸に近いあたりの方が尾根に出やすいように見えた。尾根に出れば、なにがしの遺構に出会えるだろうと予想した。
どの地点もそうだが、手前の藪がきつい。踏み込むのを拒んでいるかのようだ。
そこを、上手くすり抜けると、木々も減り、あとは斜面を登っていく。
比高がわずかとは言え厳しい登りだった。よじ登ったというべきか。特に尾根にあがる直前は崖といっていい地形で、木々が茂ってなかったら、逆に登れなかっただろうと思う。
尾根は平らな部分があった。削平地というには大げさな気がするが、周りが急な斜面ばかりなので、平坦さは充分感じられる。海に近い突端まで下る。
海を感じるが、今は木々にさえぎられ展望はできない。ただ周囲は、崖状になっている。
尾根は平らになだらかに最高部に向かって続いていた。広くなったり狭くなったりしているから、城としての曲輪だったかもしれない。
ただ途中に堀切も土塁も見られない。城山城というには、微妙だ。
最高地点に到達した。
ゆるやかに登る尾根だが、その直前は堀切で虎口を設けた痕跡があるようにも見えたが、自然地形で、ただ城山城と思い、その主郭を前にしていると思うから、そう見えるというべきなのだろう。
今、写真を見ても、多分これがその主郭のものと思うのだが、何だかはっきりしない、ただの藪にしか見えない。
主郭背後まで足を進め、はっとした。
崖状の落ち込み。切岸。ひょっとしてこれが残っているという空堀か。主郭背後にこの堀切なら、立派な山城じゃないか。
しかし、降りてみてがっかりした。5mくらい落差はあるのだが、その先は削平地になっていた。
人為的なものには違いない。畑などの跡地に思えた。
何よりも、堀らしいものはない。ここに空堀がないなんて、山城として失格じゃないか。
その切岸状になっている斜面に穴を見つけた。けっこう大きい。これは、防空壕のような施設の名残じゃないだろうかと思った。防空壕としてのその前面の削平地と切岸状の斜面と思うと納得のいく地形だ。
この削平地の周りには土留めと思われる石垣も見られた。
このあたりからもこの部分は、中世山城の遺構と言うよりは、近世の戦争遺構と見た方がいいのではと思う。
このあたりから先は更に藪はひどく、斜度もきつくなったが、下も見えていたので強引に山を下ってしまった。ほぼ山を縦断した格好だった。
覚悟はしてたものの、かなりの藪漕ぎ登城だった。
一連の登城と見学で約2時間費やした。
残念ながら、はっきりした遺構は確認できなかった。空堀も確認してない。
もしそれがわかる縄張図があるなら見てみたい。
ひょっとしたら、主郭背後が改変されてしまったのだろうか。しかし、それは、想像するばかりだ。
でも、ここに城はなかったとは言えない。遺構は確認できなかったが、地形は、なだらかな尾根と切り立った周囲の崖は、城として充分値するものだと感じた。
城山と呼ばれるくらいなら、何かしらあったのだろう。
海を監視し、大賀郷を守るには絶好の位置に違いない。
八丈富士に登り、地形を確認した時、あれが八丈城山城かぁと改めて思ったのであった。
「伊豆諸島を知る辞典」の八丈島で、中・近世の歴史の項目に城山とある。
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城山は、源為朝の城跡という言い伝えがあるが、戦国時代に小田原北条氏、三浦半島の三浦氏、神奈川(現在の横浜)の奥山氏の三氏が争った時の、城跡だったようである。八丈島は、古くから絹織物の産地としての存在価値が高く、鎌倉時代は幕府の直轄地、室町時代は関東管領上杉氏の支配下で神奈川の奥山氏が支配していた。戦国時代に入ると、奥山氏が坂下(大賀郷と三根)と樫立・小島を、北条氏が末吉・青ヶ島を、三浦氏が中之郷を支配したが、小田原北条氏の勢力が増大し、最終的には北条氏が覇者になったのである。永正一三年(一五一六)、北条氏の円明なる武将が十二艘の船で押し寄せ、奥山氏と合戦。ここはそのころの奥山方の城跡であるという。空堀が残っている。
大賀郷・横間ヶ浦下り口の右手小山
『城山遺跡発掘調査報告書』
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戦国期に、関東の北条氏・三浦氏・奥山氏が、八丈島でも争っていることに驚いた。もうそれほど、身近な土地だったということなのだろう。
そして、八丈島の絹織物は、戦を起こすほど特別な魅力ある物産だったんだろう。
それにしても目を惹いたのは、「空堀が残っている」という記述。せっかくのチャンス、これは、是非とも訪れなければ。
しかし、場所にしても、きちんと特定できない。もう少し情報が欲しいところ。『城山遺跡発掘調査報告書』が出ているくらいなら、地元ならもっといい情報が掴めるのではないか。そう期待して、まずは八丈島歴史民俗資料館を訪ねた。
展示物を順番に眺めていくと、城山のことを記した案内もあった。
(館内の撮影はOKだった。)
意を決して城山のことを訪ねると、城山の地名は知られているとのこと。しかし、展示以上に詳しいことはわからないという。小山だが登るのは難しくて、藪に覆われているそうだ。
閉まってあった資料をいろいろひっぱっり出してくれた。
どうやら城山のことは確定的になったが、詳細は深まらず。『城山遺跡発掘調査報告書』に出会えなかったのは残念だった。仕方ない。
場所はこちら。
この中央、標高81mとある山が城山である。
周回道路を隔てたところには為朝神社があった。
周回道路からの城山はなだらかな山に見える。けど、木々が鬱蒼と茂っているようだ。
最大でも81mの比高なのだ、何とかなる。しかし、木々に覆われて、ほどよい登り口が見つからない。周囲をうろうろと歩き回る。
決心がつかず海岸まで降りてきてしまった。
それほどの藪と斜度なのだ。
けど、やっぱりここしかないと潜り込んだのはここ。電柱のあたりから突入した。割と海岸に近い地点だ。海岸に近いあたりの方が尾根に出やすいように見えた。尾根に出れば、なにがしの遺構に出会えるだろうと予想した。
どの地点もそうだが、手前の藪がきつい。踏み込むのを拒んでいるかのようだ。
そこを、上手くすり抜けると、木々も減り、あとは斜面を登っていく。
比高がわずかとは言え厳しい登りだった。よじ登ったというべきか。特に尾根にあがる直前は崖といっていい地形で、木々が茂ってなかったら、逆に登れなかっただろうと思う。
尾根は平らな部分があった。削平地というには大げさな気がするが、周りが急な斜面ばかりなので、平坦さは充分感じられる。海に近い突端まで下る。
海を感じるが、今は木々にさえぎられ展望はできない。ただ周囲は、崖状になっている。
尾根は平らになだらかに最高部に向かって続いていた。広くなったり狭くなったりしているから、城としての曲輪だったかもしれない。
ただ途中に堀切も土塁も見られない。城山城というには、微妙だ。
最高地点に到達した。
ゆるやかに登る尾根だが、その直前は堀切で虎口を設けた痕跡があるようにも見えたが、自然地形で、ただ城山城と思い、その主郭を前にしていると思うから、そう見えるというべきなのだろう。
今、写真を見ても、多分これがその主郭のものと思うのだが、何だかはっきりしない、ただの藪にしか見えない。
主郭背後まで足を進め、はっとした。
崖状の落ち込み。切岸。ひょっとしてこれが残っているという空堀か。主郭背後にこの堀切なら、立派な山城じゃないか。
しかし、降りてみてがっかりした。5mくらい落差はあるのだが、その先は削平地になっていた。
人為的なものには違いない。畑などの跡地に思えた。
何よりも、堀らしいものはない。ここに空堀がないなんて、山城として失格じゃないか。
その切岸状になっている斜面に穴を見つけた。けっこう大きい。これは、防空壕のような施設の名残じゃないだろうかと思った。防空壕としてのその前面の削平地と切岸状の斜面と思うと納得のいく地形だ。
この削平地の周りには土留めと思われる石垣も見られた。
このあたりからもこの部分は、中世山城の遺構と言うよりは、近世の戦争遺構と見た方がいいのではと思う。
このあたりから先は更に藪はひどく、斜度もきつくなったが、下も見えていたので強引に山を下ってしまった。ほぼ山を縦断した格好だった。
覚悟はしてたものの、かなりの藪漕ぎ登城だった。
一連の登城と見学で約2時間費やした。
残念ながら、はっきりした遺構は確認できなかった。空堀も確認してない。
もしそれがわかる縄張図があるなら見てみたい。
ひょっとしたら、主郭背後が改変されてしまったのだろうか。しかし、それは、想像するばかりだ。
でも、ここに城はなかったとは言えない。遺構は確認できなかったが、地形は、なだらかな尾根と切り立った周囲の崖は、城として充分値するものだと感じた。
城山と呼ばれるくらいなら、何かしらあったのだろう。
海を監視し、大賀郷を守るには絶好の位置に違いない。
八丈富士に登り、地形を確認した時、あれが八丈城山城かぁと改めて思ったのであった。
2015-06-22 05:00
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