0512志久見館(長野県) [城印象記]
長野県下水内郡栄村堺字内池の志久見館(別名・内池館、市河氏館)を紹介します。
県境・県北の地にこんな立派な碑があります。遺構はないということでしたが、これは是非行かねばと思い訪ねました。
国道117号線を進み、信濃川(千曲川)を渡り一旦新潟県内に入った最初の信号を右折して県道507号線を南下します。道の脇に案内が出ています。
場所があいまいだったので、これは案外簡単にたどり着けるなと安心しました。
しかし、油断したのか、すぐ見つからず迷いました。結局は案内板一番上の矢印通り進めばよかったのですが、最初に挙げた画像のように、まわりが田んぼ=平地、といった刷り込みが強く、まわりの田んぼの風景にまどわされ、この案内板のまわりを彷徨ってしまいました。
右折して進む道は山に入っていくようで躊躇ってしまいましたが、実は素直にそのまま進めばよく、山を越えるような細道を進むとその先に田んぼが広がり、碑がありました。
地図は詳細図にならないようですが、頑張ってポイントを記しましたので、踏破にチャレンジしてみてください。
丁寧な案内板が設置されています。これはありがたいですね。
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地域の宝 内池館跡
この館跡は中世の武士の館跡であり、志久見集落の西の高台、内池と呼ばれる地にあります。館跡は平安時代末から戦国時代までこの地の領主であった市河氏に関係するものと伝えられています。
田んぼの整備などにより現状はほとんとせ失われていますが、もともとは堀または自然のくぼみにより、土塁(土で築いたとりで)で囲まれた三〇~百メートル四方の二つの郭(外囲い)で構成されていたようです。土塁は明治初年までは南方・東方一帯にあったといわれており、「たて」「たての田」「たて尻」「堀の外」など館に関係する字名および、「八幡」「八幡沖」など館跡に祀られていたらしい氏神に関係する字名が残っています。
この館跡は立地や形態から考えて、戦国時代以前の館跡であったと思われます。
志久見内池館跡保存会
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ここは市河氏の拠点で、市河氏は上杉武田の騒乱のなかで武田氏についたそうです。だから、この地は長野県に落ち着いたのかなぁと思ったりしました。
遺構は何もなく、方形土塁がどこにあったかもはっきりわかりませんでしたが、この地が高台の開けた場所であることはわかります。居館の立地にはふさわしそうです。
そんな昔をしのんで想像するのは楽しいですね。
県境・県北の地にこんな立派な碑があります。遺構はないということでしたが、これは是非行かねばと思い訪ねました。
国道117号線を進み、信濃川(千曲川)を渡り一旦新潟県内に入った最初の信号を右折して県道507号線を南下します。道の脇に案内が出ています。
場所があいまいだったので、これは案外簡単にたどり着けるなと安心しました。
しかし、油断したのか、すぐ見つからず迷いました。結局は案内板一番上の矢印通り進めばよかったのですが、最初に挙げた画像のように、まわりが田んぼ=平地、といった刷り込みが強く、まわりの田んぼの風景にまどわされ、この案内板のまわりを彷徨ってしまいました。
右折して進む道は山に入っていくようで躊躇ってしまいましたが、実は素直にそのまま進めばよく、山を越えるような細道を進むとその先に田んぼが広がり、碑がありました。
地図は詳細図にならないようですが、頑張ってポイントを記しましたので、踏破にチャレンジしてみてください。
丁寧な案内板が設置されています。これはありがたいですね。
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地域の宝 内池館跡
この館跡は中世の武士の館跡であり、志久見集落の西の高台、内池と呼ばれる地にあります。館跡は平安時代末から戦国時代までこの地の領主であった市河氏に関係するものと伝えられています。
田んぼの整備などにより現状はほとんとせ失われていますが、もともとは堀または自然のくぼみにより、土塁(土で築いたとりで)で囲まれた三〇~百メートル四方の二つの郭(外囲い)で構成されていたようです。土塁は明治初年までは南方・東方一帯にあったといわれており、「たて」「たての田」「たて尻」「堀の外」など館に関係する字名および、「八幡」「八幡沖」など館跡に祀られていたらしい氏神に関係する字名が残っています。
この館跡は立地や形態から考えて、戦国時代以前の館跡であったと思われます。
志久見内池館跡保存会
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ここは市河氏の拠点で、市河氏は上杉武田の騒乱のなかで武田氏についたそうです。だから、この地は長野県に落ち着いたのかなぁと思ったりしました。
遺構は何もなく、方形土塁がどこにあったかもはっきりわかりませんでしたが、この地が高台の開けた場所であることはわかります。居館の立地にはふさわしそうです。
そんな昔をしのんで想像するのは楽しいですね。
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