0545笠木館(三重県) [城印象記]
三重県多気郡多気町笠木の笠木館を紹介します。
場所は目印となるものもないので苦労するかとも思われましたが、簡単にたどり着けました。さすがナビの威力です。印を付けた南側に到着しました。そこは田畑が続くなかでも幅広の道になっていますので、余白地に駐車できます。
全体はこんもりとした丘になっています。その薄暗い竹林に入る前に説明版がありました。
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中世の回土居群
この場所は中村ノ内と言い古くから中屋敷と呼ばれ明治初期まで八幡祠があった。また近くの字名に町屋、市門、伊賀人、駒ノ口などがある。
標高は四十Mながら二重、三重の土塁に囲まれ迷路のようになった郭が大小合わせて三七、井戸が二四ほど点在していた。中世の回土居群としては県下でも数少ない砦跡である。
平時にはここを居住として、有時には一KM離れた矢田城に立籠りの砦としていた。
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夕方には違いなかったのですが、その竹藪は鬱蒼と茂り光を遮っていました。
道が通り抜けていて、何とかその通路は抜けれるのですが、すごい薮です。朽ちて倒れた竹と蜘蛛の巣。
この道のお陰で、何とか遺構の様子がわかります。
大小の方形居館を寄せ集めたような構造です。そこを堀底道が繋いでいるのでしょうか。
勇気を振り絞ってこの土塁の中も突入してみました。暗くて視界が効かないほどの竹藪に加えて、蜘蛛の巣。
わかるというほどははっきり遺構の様子がわかるわけではありません。道よりも土塁内の方が高くなっているケースが目立ちました。
こんな堀か水路かわからないような、痕跡も見られました。
井戸跡があるということですが、鬱蒼としていることもあって、こちらは見つけられませんでした。
外にはこんな看板もあったので、茂みに覆われ、落とし穴状態になっているのかもしれません。
薮から抜けてほっとひと息。わかったような、はっきりわからないような手応えです。それでも気になって、再び竹藪に突入してみたりしましたが、あまり成果はなかったようです。
やっぱり縄張図があったので粘れました。(三重の山城ベスト50を歩く255頁)
かなりの竹藪なので、見学には装備を整えて立ち入ってください。もっとも、こんな竹藪に入ろうとするのは、それなりのモノ好きな人しかいないかもしれませんが。
夕暮れ時、蜘蛛の巣を払っていると近所のおばさんに話しかけられました。
話をしてみると、笠木館に詳しくて驚きました。ここは研究調査も何度かされているそうで、その話も近くにいて聞き及んでいるのでしょう。また、笠木館は土豪共同体の館で、その内のひとりのご子孫だそうです。
せっかくのお話で録音して措きたいくらいの内容でしたが、理解できないまま流れていってしまったのが残念でした。
それでも、こんな話が残っています。
・往時は海岸線がこの近くまできていた。海を利用しての交通があった。
・多気郡の中心地だった。栄えていた。
・東の高いところにノロシ場があり緊急時などはそこへあがって様子を見た。
急いで走れるよう、またバタバタした様子が外から見られないように
堀底道が東西に通っていた。(ノロシ場は未確認。)
すっかり暗くなってしまったけど、いいお話が聞けました。
場所は目印となるものもないので苦労するかとも思われましたが、簡単にたどり着けました。さすがナビの威力です。印を付けた南側に到着しました。そこは田畑が続くなかでも幅広の道になっていますので、余白地に駐車できます。
全体はこんもりとした丘になっています。その薄暗い竹林に入る前に説明版がありました。
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中世の回土居群
この場所は中村ノ内と言い古くから中屋敷と呼ばれ明治初期まで八幡祠があった。また近くの字名に町屋、市門、伊賀人、駒ノ口などがある。
標高は四十Mながら二重、三重の土塁に囲まれ迷路のようになった郭が大小合わせて三七、井戸が二四ほど点在していた。中世の回土居群としては県下でも数少ない砦跡である。
平時にはここを居住として、有時には一KM離れた矢田城に立籠りの砦としていた。
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夕方には違いなかったのですが、その竹藪は鬱蒼と茂り光を遮っていました。
道が通り抜けていて、何とかその通路は抜けれるのですが、すごい薮です。朽ちて倒れた竹と蜘蛛の巣。
この道のお陰で、何とか遺構の様子がわかります。
大小の方形居館を寄せ集めたような構造です。そこを堀底道が繋いでいるのでしょうか。
勇気を振り絞ってこの土塁の中も突入してみました。暗くて視界が効かないほどの竹藪に加えて、蜘蛛の巣。
わかるというほどははっきり遺構の様子がわかるわけではありません。道よりも土塁内の方が高くなっているケースが目立ちました。
こんな堀か水路かわからないような、痕跡も見られました。
井戸跡があるということですが、鬱蒼としていることもあって、こちらは見つけられませんでした。
外にはこんな看板もあったので、茂みに覆われ、落とし穴状態になっているのかもしれません。
薮から抜けてほっとひと息。わかったような、はっきりわからないような手応えです。それでも気になって、再び竹藪に突入してみたりしましたが、あまり成果はなかったようです。
やっぱり縄張図があったので粘れました。(三重の山城ベスト50を歩く255頁)
かなりの竹藪なので、見学には装備を整えて立ち入ってください。もっとも、こんな竹藪に入ろうとするのは、それなりのモノ好きな人しかいないかもしれませんが。
夕暮れ時、蜘蛛の巣を払っていると近所のおばさんに話しかけられました。
話をしてみると、笠木館に詳しくて驚きました。ここは研究調査も何度かされているそうで、その話も近くにいて聞き及んでいるのでしょう。また、笠木館は土豪共同体の館で、その内のひとりのご子孫だそうです。
せっかくのお話で録音して措きたいくらいの内容でしたが、理解できないまま流れていってしまったのが残念でした。
それでも、こんな話が残っています。
・往時は海岸線がこの近くまできていた。海を利用しての交通があった。
・多気郡の中心地だった。栄えていた。
・東の高いところにノロシ場があり緊急時などはそこへあがって様子を見た。
急いで走れるよう、またバタバタした様子が外から見られないように
堀底道が東西に通っていた。(ノロシ場は未確認。)
すっかり暗くなってしまったけど、いいお話が聞けました。
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