0661本郷城 [岡崎の城をめぐる]
岡崎市東本郷町北浦。
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東本郷の信号の位置から南東150mほどにあるのだが、道は説明し辛い。路地を間違えなければ、生誕碑と説明板が出ているので、たどりつけると思う。
城とはいうものの遺構は何もない。明治期には土塁も残っていたというから、何かしらあったことには違いない。もっとも、城というより、植村新六郎栄安生誕の地としての説明だ。
植村栄安は、清康・広忠の二代にわたって主君の仇討をした。松平氏も二代にわたり近臣に刺されるという不運が続いたが、それをまたすぐ近くにいて、すぐ討ち取るという機会があったということだけでも驚く。その奇跡的な偉業を植村栄安がなした。
この石碑がその生誕碑だ。かっこいい碑ではあるが、文字は読み切れない。
植村栄安は織田との戦いで天文21(1552)年に亡くなるが、子孫は2万5千石の大名である高取藩藩主となった。
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東本郷の信号の位置から南東150mほどにあるのだが、道は説明し辛い。路地を間違えなければ、生誕碑と説明板が出ているので、たどりつけると思う。
城とはいうものの遺構は何もない。明治期には土塁も残っていたというから、何かしらあったことには違いない。もっとも、城というより、植村新六郎栄安生誕の地としての説明だ。
植村栄安は、清康・広忠の二代にわたって主君の仇討をした。松平氏も二代にわたり近臣に刺されるという不運が続いたが、それをまたすぐ近くにいて、すぐ討ち取るという機会があったということだけでも驚く。その奇跡的な偉業を植村栄安がなした。
この石碑がその生誕碑だ。かっこいい碑ではあるが、文字は読み切れない。
植村栄安は織田との戦いで天文21(1552)年に亡くなるが、子孫は2万5千石の大名である高取藩藩主となった。
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