0685川手城(愛知県) [城印象記]
愛知県豊田市川手町城山の川手城を紹介します。
ここもザクっとマッピングしただけなので、等高線のある国土地理院地図を貼っておきます。+印が川手城になります。
矢印のあるところから登ります。この地点が標高318m、城が標高381m、比高にして63mです。道があるので手軽です。しかしクマ目撃の注意看板もありました。くれぐれも注意してください。
道をどんどん登っていきます。1ヶ所分岐ヶ所があったかと思いますが、どんどん上に登る方です。登り詰めた上は1軒民家と畑があります。
もう廃屋といっていい状況です。でも畑は現役なのでしょうか。
そのあたりがちょっと不気味な過疎化する寒村の現実を感じました
この時点ではあまりピンときませんが、ここはもう城域で、曲輪の一つかと思われます。削平地が畑として壊変されたものかどうかわかりませんので、確かなことは言えないのですが。
見上げる上の削平地が主曲輪です。
上は広い削平地になっています。隅には案内板もありました。
この川手城は山田氏の本城で、北側の矢作川に向って垂れ下った小尾根の先端に築城されている。本丸址には、現在、送電鉄塔が建っている。ニの丸址は後藤豊氏の屋敷となっており、井戸には清水が滾々と湧いている。
山田氏は、建武2年(1335)、当時足助荘に属していた川手村に入り、この地に勢力を持った土豪である。最初に住んでいた所は、この川手城の下流約1kmの字城ノ上地内にあった居館城跡と考えられている。両側をやや深い谷川で隔てられた細長い台地端を、大きな堀切によって城地を区画し、2段の削平地が設けられている。
川手は三河の北端にあり、矢作川を隔てて美濃に対している。川を挟んだわずか500mの近距離に福原城(串原村)、小田子城(上矢作村)、押山城(稲武町)、そしてこの川手城の4城砦が目白押しに並んでいるのは壮観である。なお、川手城と武節谷との連絡は、川手城-押山城ヶ峯-峯山砦-九沢砦-武節古城のルートをたどっていた。
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旧稲武町のものですが、川手城にありながら川手城の説明が少なく、しかも送電鉄塔は主郭脇という位置なのではないのか、というちょっとズレている解説ではあります。
けど、案内板があるそのことが、この川手城のステータスを物語っているのでしょう。小さいながらにも本城であり、格式があったのだろうと思います。
その主郭奥は、2段3段と高くなり城の一番重要地点と思われ、そのあたりの遺構はなかなかいいですね。
奥の土檀には祠が祀ってありました。
そしてその背後は深い堀切です。しっかり掘れてます。
その更に奥は削平された部分もありましたが、城域はここまででしょうか。その先は山の斜面です。
反対に戻ると、尾根先には小さな曲輪があります。倒れたお墓が散乱していて痛ましいですが、ここも間違いなく曲輪でしょう。
その先は薮ですが、そこを押しのけて進むと堀切がありました。もう屋敷のすぐ横になるような地点です。ここは小ぶりな堀切ですが、しかしはっきりわかる遺構でした。
全体的にコンパクトにまとまった城です。堀切や曲輪など、遺構としても見応えがあると思います。
主郭はやや草が多く(夏には薮ってしまいそうだ)、木もあって展望が開けているわけではありませんが、それでも、名倉川と矢作川が併わさる方面が開けてる主郭からの景色はいいですね。もうそこは岐阜県です。
ここもザクっとマッピングしただけなので、等高線のある国土地理院地図を貼っておきます。+印が川手城になります。
矢印のあるところから登ります。この地点が標高318m、城が標高381m、比高にして63mです。道があるので手軽です。しかしクマ目撃の注意看板もありました。くれぐれも注意してください。
道をどんどん登っていきます。1ヶ所分岐ヶ所があったかと思いますが、どんどん上に登る方です。登り詰めた上は1軒民家と畑があります。
もう廃屋といっていい状況です。でも畑は現役なのでしょうか。
そのあたりがちょっと不気味な過疎化する寒村の現実を感じました
この時点ではあまりピンときませんが、ここはもう城域で、曲輪の一つかと思われます。削平地が畑として壊変されたものかどうかわかりませんので、確かなことは言えないのですが。
見上げる上の削平地が主曲輪です。
上は広い削平地になっています。隅には案内板もありました。
この川手城は山田氏の本城で、北側の矢作川に向って垂れ下った小尾根の先端に築城されている。本丸址には、現在、送電鉄塔が建っている。ニの丸址は後藤豊氏の屋敷となっており、井戸には清水が滾々と湧いている。
山田氏は、建武2年(1335)、当時足助荘に属していた川手村に入り、この地に勢力を持った土豪である。最初に住んでいた所は、この川手城の下流約1kmの字城ノ上地内にあった居館城跡と考えられている。両側をやや深い谷川で隔てられた細長い台地端を、大きな堀切によって城地を区画し、2段の削平地が設けられている。
川手は三河の北端にあり、矢作川を隔てて美濃に対している。川を挟んだわずか500mの近距離に福原城(串原村)、小田子城(上矢作村)、押山城(稲武町)、そしてこの川手城の4城砦が目白押しに並んでいるのは壮観である。なお、川手城と武節谷との連絡は、川手城-押山城ヶ峯-峯山砦-九沢砦-武節古城のルートをたどっていた。
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旧稲武町のものですが、川手城にありながら川手城の説明が少なく、しかも送電鉄塔は主郭脇という位置なのではないのか、というちょっとズレている解説ではあります。
けど、案内板があるそのことが、この川手城のステータスを物語っているのでしょう。小さいながらにも本城であり、格式があったのだろうと思います。
その主郭奥は、2段3段と高くなり城の一番重要地点と思われ、そのあたりの遺構はなかなかいいですね。
奥の土檀には祠が祀ってありました。
そしてその背後は深い堀切です。しっかり掘れてます。
その更に奥は削平された部分もありましたが、城域はここまででしょうか。その先は山の斜面です。
反対に戻ると、尾根先には小さな曲輪があります。倒れたお墓が散乱していて痛ましいですが、ここも間違いなく曲輪でしょう。
その先は薮ですが、そこを押しのけて進むと堀切がありました。もう屋敷のすぐ横になるような地点です。ここは小ぶりな堀切ですが、しかしはっきりわかる遺構でした。
全体的にコンパクトにまとまった城です。堀切や曲輪など、遺構としても見応えがあると思います。
主郭はやや草が多く(夏には薮ってしまいそうだ)、木もあって展望が開けているわけではありませんが、それでも、名倉川と矢作川が併わさる方面が開けてる主郭からの景色はいいですね。もうそこは岐阜県です。
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