0691勝沼城(東京都) [城印象記]
東京都青梅市東青梅六丁目の勝沼城(師岡城)を紹介します。
なかなか本格的な土の城です。
城山配水場の前にある案内板には城址古図がありました。細かいところが判りにくい図ではありましたが、参考になります。
アプローチは、南側の光明寺からがよいでしょう。墓地の坂を登り切るとさっそく遺構が待っています。鉄塔の少し奥が本丸になります。
たどり着きました。本丸です。削平地が広がっています。片隅に説明板がありました。
勝沼城跡
勝沼城の築城年代や築城者の名前は不明である。
平将門の末裔と称し多摩川上流地域を領していた三田氏の居城であったが、永禄六年(1563)滝山城の北条氏照によって滅ぼされた。
勝沼城にはその後北条氏照の家臣師岡山城守将景が入って城の改変を行ったため師岡城ともいわれている。
天正十八年(1590)八王子落城とともに廃城となった。
現在三つの曲輪が現存しており、空堀や土塁などの遺構が良好に保存されている。
昭和五十年東京都の歴史的環境保全地域に指定され、現在青梅市が管理している。
平成六年三月三十一日建設 東京都教育委員会
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本丸は四角という訳でなく奥が広がったような台形状に削平されています。両脇には土塁が見られます。といっても、土塁が確認できる程度のもので、削れてしまったのか起伏は甘いものです。
説明板の後ろあたりも隅櫓台というべき土塊がありましたが、迫力には欠けるものです。
そしてよく見ると、この本丸途中に区切りの土塁があって、細かく分けられていたのがわかります。居住性を考えるなら当然のことかもしれませんが。
特に本丸の奥などはそんな感じが判ると思います。
本丸を奥に北に進むと二の丸です。堀があります。
この堀も浅くなっていましたが、本来はもっと深かったことでしょうね。
二の丸、やや狭いながらもきれいな削平だと思いました。
実は私としては、ここが本来主曲輪なのではと考えたりしました。おそらく南からの敵を想定して丘の上を利用して築かれた城です。その前面からは奥になり、厳重に守られたこの曲輪の方が、主曲輪にふさわしのではないでしょうか。
背後には二重の堀切が見られます。三重堀切ととれなくもないようですが、二重でしょう。けど、二本の堀切で、いわゆる連続堀切という感じではありません。
背後、側面とも遺構は複雑そうです。全体的に掘りは甘く、地形を読み取るのもやっかいです。遺構がよく残っているとも言えるし、遺構が風化してしまったとも言えます。私としては、少しもの足りないと思ってしまいましたが。
これは2の丸と本丸との間に近い側面です。横堀と竪堀が組み合わさっています。でも、よくわからないですよね。
こんな周辺も歩いて写真を撮ってみました。あれこれ縄張りを詮索して歩くのも楽しいことですが、いかんせん見応えのない造形も多く、こうしてまとめるには苦労します。やはり、城は現場で楽しむのが一番です。
気を取り直して、本丸の東方面に行きます。
こちらは、城址古図で曲輪と記されたところです。本丸とも区切られた曲輪であることは間違いありません。
そしてその東の一段下ったところは、妙光院の墓地になります。削平された曲輪と見ると一番広いです。城址古図で三の丸と記されたところです。
もうここは城域外でもいいんじゃないか、と最初は思いました。しかし、違うのですね。曲輪内は墓地になってしまっているので遺構は消滅してしまっているのですが、その前面には遺構が見られます。
これは竪堀でしょうか。
南側に削平地も見られ、何やら大手口を形成しているように見えました。遺構破壊もあることでしょうし、きちんとは思い描けませんでした。が、この墓地が曲輪であったことは間違いないことでしょう。
全体に造形が甘くなっており見応えに欠ける山城ではあります。しかし、お寺の裏山という立地で見学しやすく、でも城域も広く、遺構がよく残っている山城ではあります。評価の分かれるところですね。
この道も、後世のものと見るか、遺構と見るか。三の丸、曲輪の下を走っています。
全体に写真映えはしませんが、けっこう充実したひと時でした。
なかなか本格的な土の城です。
城山配水場の前にある案内板には城址古図がありました。細かいところが判りにくい図ではありましたが、参考になります。
アプローチは、南側の光明寺からがよいでしょう。墓地の坂を登り切るとさっそく遺構が待っています。鉄塔の少し奥が本丸になります。
たどり着きました。本丸です。削平地が広がっています。片隅に説明板がありました。
勝沼城跡
勝沼城の築城年代や築城者の名前は不明である。
平将門の末裔と称し多摩川上流地域を領していた三田氏の居城であったが、永禄六年(1563)滝山城の北条氏照によって滅ぼされた。
勝沼城にはその後北条氏照の家臣師岡山城守将景が入って城の改変を行ったため師岡城ともいわれている。
天正十八年(1590)八王子落城とともに廃城となった。
現在三つの曲輪が現存しており、空堀や土塁などの遺構が良好に保存されている。
昭和五十年東京都の歴史的環境保全地域に指定され、現在青梅市が管理している。
平成六年三月三十一日建設 東京都教育委員会
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本丸は四角という訳でなく奥が広がったような台形状に削平されています。両脇には土塁が見られます。といっても、土塁が確認できる程度のもので、削れてしまったのか起伏は甘いものです。
説明板の後ろあたりも隅櫓台というべき土塊がありましたが、迫力には欠けるものです。
そしてよく見ると、この本丸途中に区切りの土塁があって、細かく分けられていたのがわかります。居住性を考えるなら当然のことかもしれませんが。
特に本丸の奥などはそんな感じが判ると思います。
本丸を奥に北に進むと二の丸です。堀があります。
この堀も浅くなっていましたが、本来はもっと深かったことでしょうね。
二の丸、やや狭いながらもきれいな削平だと思いました。
実は私としては、ここが本来主曲輪なのではと考えたりしました。おそらく南からの敵を想定して丘の上を利用して築かれた城です。その前面からは奥になり、厳重に守られたこの曲輪の方が、主曲輪にふさわしのではないでしょうか。
背後には二重の堀切が見られます。三重堀切ととれなくもないようですが、二重でしょう。けど、二本の堀切で、いわゆる連続堀切という感じではありません。
背後、側面とも遺構は複雑そうです。全体的に掘りは甘く、地形を読み取るのもやっかいです。遺構がよく残っているとも言えるし、遺構が風化してしまったとも言えます。私としては、少しもの足りないと思ってしまいましたが。
これは2の丸と本丸との間に近い側面です。横堀と竪堀が組み合わさっています。でも、よくわからないですよね。
こんな周辺も歩いて写真を撮ってみました。あれこれ縄張りを詮索して歩くのも楽しいことですが、いかんせん見応えのない造形も多く、こうしてまとめるには苦労します。やはり、城は現場で楽しむのが一番です。
気を取り直して、本丸の東方面に行きます。
こちらは、城址古図で曲輪と記されたところです。本丸とも区切られた曲輪であることは間違いありません。
そしてその東の一段下ったところは、妙光院の墓地になります。削平された曲輪と見ると一番広いです。城址古図で三の丸と記されたところです。
もうここは城域外でもいいんじゃないか、と最初は思いました。しかし、違うのですね。曲輪内は墓地になってしまっているので遺構は消滅してしまっているのですが、その前面には遺構が見られます。
これは竪堀でしょうか。
南側に削平地も見られ、何やら大手口を形成しているように見えました。遺構破壊もあることでしょうし、きちんとは思い描けませんでした。が、この墓地が曲輪であったことは間違いないことでしょう。
全体に造形が甘くなっており見応えに欠ける山城ではあります。しかし、お寺の裏山という立地で見学しやすく、でも城域も広く、遺構がよく残っている山城ではあります。評価の分かれるところですね。
この道も、後世のものと見るか、遺構と見るか。三の丸、曲輪の下を走っています。
全体に写真映えはしませんが、けっこう充実したひと時でした。
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