0943御前城(栃木県) [城印象記]
栃木県真岡市田町字御前の芳賀御前城を紹介します。
真岡東中学の西側が跡地のようで、中学の端に案内板と碑があります。
すっかり雨に降られてしまいました。こんな時は、こんな城をまわるに限ります。遺構は何もありませんが、説明がありがたいですね。
御前城について
芳賀氏の居館(御前城)は、文治5(1189)年8月に、源頼朝に従い奥州合戦で活躍した波賀次郎大夫(高親)が、帰国後に築いたと言われている。
「芳賀系譜」によると、「芳賀左兵衛尉高名の子息伊賀守高貞代に真岡城を取立引越す」とある。この城は平城で敵の攻撃に弱いために、現在の真岡小学校のある丘の上に移されたと考えられる。延元4(1339)年3月24日付の北畠親房御教書写には、芳賀地方攻撃の記録はあるが、御前城攻撃の記事はない。
現在地から西に走る道路の部分は御前城の堀の跡である。また、校門の方向に向かって南北に塀があったことが地図より確かめられている。
平成17年10月 真岡市教育委員会
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城址碑と案内板を手前に校門方向を見たところです。
今もフェンスがありますが、居館の塀があったわけですね。その向こうの並木あたりが堀跡になります。
西に走る道路です。脇が畑地になっているので堀が想像しやすいですね。
室町時代以前の話ですから、これだけわかるだけでもすごいですね。真岡小学校に移動した芳賀氏の真岡城との位置を地図で確認したりするだけでも、面白いものです。
居館を想像し、しばし雨の中でたたずむのでした。
真岡東中学の西側が跡地のようで、中学の端に案内板と碑があります。
すっかり雨に降られてしまいました。こんな時は、こんな城をまわるに限ります。遺構は何もありませんが、説明がありがたいですね。
御前城について
芳賀氏の居館(御前城)は、文治5(1189)年8月に、源頼朝に従い奥州合戦で活躍した波賀次郎大夫(高親)が、帰国後に築いたと言われている。
「芳賀系譜」によると、「芳賀左兵衛尉高名の子息伊賀守高貞代に真岡城を取立引越す」とある。この城は平城で敵の攻撃に弱いために、現在の真岡小学校のある丘の上に移されたと考えられる。延元4(1339)年3月24日付の北畠親房御教書写には、芳賀地方攻撃の記録はあるが、御前城攻撃の記事はない。
現在地から西に走る道路の部分は御前城の堀の跡である。また、校門の方向に向かって南北に塀があったことが地図より確かめられている。
平成17年10月 真岡市教育委員会
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城址碑と案内板を手前に校門方向を見たところです。
今もフェンスがありますが、居館の塀があったわけですね。その向こうの並木あたりが堀跡になります。
西に走る道路です。脇が畑地になっているので堀が想像しやすいですね。
室町時代以前の話ですから、これだけわかるだけでもすごいですね。真岡小学校に移動した芳賀氏の真岡城との位置を地図で確認したりするだけでも、面白いものです。
居館を想像し、しばし雨の中でたたずむのでした。
2016-11-09 05:00
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