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0951小針城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市小針町。


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ここに「阿部城内跡」の石碑がある。

ただこの石碑は、小針から形のよい石が出たので、石碑を作って建てたという。戦前の話。そして道路の拡張があり、今の場所に落ち着いた、それが昭和18年のことだそうだ。

東側から来れば集落の入口ともいうべき場所で、城の門前になるかもしれない。

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室町中期、阿部忠正が小針城を築いた。

詳細についてはよくわからない。が、小針には城を思わせる地名が残っている。城跡・池城・屋下・本丸・馬々西・的場、想像をかき立てる。

私としては、県道230号線の圓慶寺付近が、集落の中心でもあり、周囲から見れば高台のようで、館城があったように感じる。

城跡の地名があり、以前は土塁が残っていた。高さが4~5m、上は平地で60平方mほどの面積で、櫓台のような土塊だったらしい。今は残っておらず、私も目にしたことはない。残念だ。

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南には本丸らしからぬ景色ではあるが、本丸という地名がある。

北には神明社があり、ここも城があったと伝えられる。

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神社裏手には堀跡ともとれそうな地面の段差がある。

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神社近辺も、少し前とではかなり変わってしまった。想像しにくいが、しかし、西の道路など、高低差を考えると北から西へと空堀が回っていたのかなと想像できる。

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そんなこんなで、小針集落には阿部氏累代のかなり大きな館城があったのではと考えられる。

そして神明社東の田んぼに、阿部忠正の墓と伝わる宝篋印塔があった。

今は舳越町の願照寺に移動した。

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ここには阿部家4代の墓がある。

初代 忠正 小針城を築く
2代 正重 松平忠親・長親に仕える
3代 正俊
4代 正宣 松平清康、広忠に仕える
5代 正勝 家康に従い今川の人質にも行く(2歳年長)

小さな墓が2代から5代のものだ。

しかし、普通、初代の墓は小さなもので、功を成し遂げた子孫の墓が功績以上に立派な墓になっているのが、よくある光景。それを考えると、5代正勝こそ、近世大名の始まりであり、その後三河を離れていくわけだから、一番左の小さなお墓が忠正で、順に並び、右の大きなものは5代正勝と思われるが、いかがなものだろうか。

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その後、阿部10代正邦は備後福山藩10万石の大名になる。福山城では阿部氏10代161年の藩主時代が明治維新まで続く。

今、岡崎市と広島県福山市が姉妹都市になっているのも、そんな関係が影響しているのだろう。

有名な日米和親条約を締結した阿部正弘は、この小針城主阿部忠正の子孫だ。

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