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1013土井城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市土井町城屋敷。


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マークしたのはこちらです。

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土井城城主本多秀清と早乙女一族の墓があります。かつては田んぼの中にあったような覚えがありますが、まわりはすっかり宅地化されてしまいました。

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  土井城主本多豊後守秀清公廟所

 本多秀清は、松平長親に仕え、功あって明応6年(1497)、碧海郡土井村を賜ります。同7年9月に没していますが、清重・信重・広孝と続く家系が本多豊後守家です。
 信重の時、この地に城を築き、周りに堀を巡らしました。秀清より清重・信重になって松平信忠・清康によく仕え、信重は、吉田城攻めの時、23歳で御油の縄手で討ち死にしました。その子弘孝は、(松平広忠から広の字を賜りました。)吉良東条城攻めに敵将を討ち取り、一向一揆の時には、土井城を守り、永禄7年(1564)の田原城攻めに戦功を立て、そこの城主となり、土井城を離れました。この間本多家は、66年間、土井城主として土井の地を守りました。以後、掛川の戦い、姉川の戦い、三方原の戦い、長篠の戦い、高天神城攻め、小牧長久手の戦いに活躍しました。その子康秀は、土井の城で生まれ、16歳の時から父に従い、小田原城攻めの功により上州白井2万石の城主となり、慶長6年(1601)、岡崎城主となります。以後、康紀・忠利と3代44年続きます。

  早乙女一族の墓

 この墓は、土井利勝の先祖である早乙女一族の墓であるといわれています。
 土井利勝は、元亀4年(1573)、遠江国浜松に生まれ、幼少時代を土井で過ごします。数え年3歳の時、初めて主君家康の対面を許され、家康より「土井松次郎」を名乗るよう直々に命じられます。その後、秀忠が生まれると7歳にして子守役となります。
 家康・秀忠・家光の三代に仕え、下総国古河16万石城主になり、幕府の大老職に登りつめます。江戸幕府の基礎を築き、幕藩体制の確立に貢献しました。寛永21年(1644)、71歳で亡くなりました。

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その本多秀清の墓がこちらです。

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その左横後ろには早乙女一族の墓です。

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このあたりもお城の一角だったかもしれませんが、土井城は特に遺構などは残っていません。

依然は、少しの高台と周りがお堀の跡らしい深田になっていました。

城屋敷にあるこちらの左のお宅が城跡ということです。

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そして、もう一ヶ所、居館跡と伝わるのが西番城あたりです。新しくできた土井公園の斜め向かいです。今は宅地で、全くそれらしくはないのですが。

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城屋敷の城とどんな関係であったのか、よくわかりません。

本多の家も平八郎忠勝の系統、正信正純の系統、作左衛門重次の系統などとあって混乱しそうですが、それぞれ別家で親戚でもないようです。しかし、ここからでた本多康秀が初代岡崎藩主となるわけで、それを思うと少し感慨深いものがあります。

この地で育った土井利勝が、土井城でどうしていたのかもわかりません。しかし、土井利勝は異例の出世をします。

そんな土井利勝を顕彰してか、社宮司社には土井氏発蹟地の碑があります。

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