1288波瀬城(三重県) [城印象記]
津市一志町波瀬の波瀬城を紹介します。
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波瀬川井ノ倉橋のたもとに駐車場があります。ここから登る山城が波瀬城です。
道は整っています。しかし、主な曲輪群にあがる前の斜面は急です。これは堪えますね、息があがりそうです。
曲輪の鞍部というべき場所にあがりました。
そこに案内板があります。
波瀬城跡
波瀬(はぜ)城は、伊勢平野から北畠氏の本拠がある多気(美杉町)に通じるルート、矢頭峠の手前にあり、主要な交通路を押さえる場所に位置しています。北畠氏の一族の木造雅俊が応永元年(1394)に築城したといわれています。
城跡は標高150~160mの尾根上にあり、南麓からの比高は約70mを測ります。折れまがって伸びる東西方向の尾根に郭や堀切が連続して設けられ、大きく東部・中央部・西部にわかれ、城の規模は東西約190m×南北約110mに及びます。最も南に張り出した最高所にある郭2が主郭であり、北西の郭1とは堀切aにより区切られています。郭1の北西端には堀切bや土塁の途切れた出入口があり、郭1・2の北側には幅広い腰郭があります。主郭の北東側に続く郭3~6は南から北へ向かって大小の壇状地が階段状に続き、東端に堀切eが設けられています。東部に南北方向の2条の大きな堀切が設けられており、全体に防御性の高い城になっています。
津市教育委員会
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縄張図も掲載されていました。こうして遺構を見ると、曲輪が目立つ城ですね。
そこから階段で西の曲輪にあがります。ここが、広くて主郭と言われています。
ここから、眺望も効きます。集落や道の様子がよくわかります。
奥の場所は一段と高くなっていました。土塁でしょうか、櫓台跡でしょうか。
ここから振り返った主郭もいいものですね。
さて、その先ですが、堀切です。それも深いです。
横から見た方が、その深さ実感できますか。
堀切を渡り曲輪に上がります。小さいながらもしっかりと削平された曲輪で、奥には土塁もきれいに残っています。
説明文によると、主郭に対して出丸のような書き方をされていますが、私は詰めの丸のような、主郭より更に上のグレードを感じました。
それというのも、こちらの方が主郭より高いように感じられました。
井戸も見られます。この位置から自噴したようには思えないので、雨水などを溜めておいて利用したのでしょう。
また、これらの曲輪の北側には腰曲輪があります。
主郭から見下ろした様子です。切岸と落差を感じます。
詰めの丸から見た腰曲輪です。けっこう広さあります。
一旦、案内板のある鞍部に出て、今度は東の曲輪へと向かいます。
そこから振り返った鞍部の様子です。
ここも曲輪として機能していたことでしょう。
東の曲輪もよく削平されています。
縄張図でいうところの堀切ですが、曲輪と曲輪の連絡路とでも言うような通路です。
そして、その奥に細長い曲輪がありました。
遺構が良く残り、城域もある程度あり、見応えがありました。しかし、初期の城らしく、構造の安直さを感じます。また曲輪の優劣感がない城ですね。解釈次第では、主郭・2郭・3郭・4郭が変わるように思えました。それだけ、城主の権限がまだまだ確立されてないのでしょう。
最後に、山城の全景を紹介します。
山の中を歩き回るにはよい天気でした。
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波瀬川井ノ倉橋のたもとに駐車場があります。ここから登る山城が波瀬城です。
道は整っています。しかし、主な曲輪群にあがる前の斜面は急です。これは堪えますね、息があがりそうです。
曲輪の鞍部というべき場所にあがりました。
そこに案内板があります。
波瀬城跡
波瀬(はぜ)城は、伊勢平野から北畠氏の本拠がある多気(美杉町)に通じるルート、矢頭峠の手前にあり、主要な交通路を押さえる場所に位置しています。北畠氏の一族の木造雅俊が応永元年(1394)に築城したといわれています。
城跡は標高150~160mの尾根上にあり、南麓からの比高は約70mを測ります。折れまがって伸びる東西方向の尾根に郭や堀切が連続して設けられ、大きく東部・中央部・西部にわかれ、城の規模は東西約190m×南北約110mに及びます。最も南に張り出した最高所にある郭2が主郭であり、北西の郭1とは堀切aにより区切られています。郭1の北西端には堀切bや土塁の途切れた出入口があり、郭1・2の北側には幅広い腰郭があります。主郭の北東側に続く郭3~6は南から北へ向かって大小の壇状地が階段状に続き、東端に堀切eが設けられています。東部に南北方向の2条の大きな堀切が設けられており、全体に防御性の高い城になっています。
津市教育委員会
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縄張図も掲載されていました。こうして遺構を見ると、曲輪が目立つ城ですね。
そこから階段で西の曲輪にあがります。ここが、広くて主郭と言われています。
ここから、眺望も効きます。集落や道の様子がよくわかります。
奥の場所は一段と高くなっていました。土塁でしょうか、櫓台跡でしょうか。
ここから振り返った主郭もいいものですね。
さて、その先ですが、堀切です。それも深いです。
横から見た方が、その深さ実感できますか。
堀切を渡り曲輪に上がります。小さいながらもしっかりと削平された曲輪で、奥には土塁もきれいに残っています。
説明文によると、主郭に対して出丸のような書き方をされていますが、私は詰めの丸のような、主郭より更に上のグレードを感じました。
それというのも、こちらの方が主郭より高いように感じられました。
井戸も見られます。この位置から自噴したようには思えないので、雨水などを溜めておいて利用したのでしょう。
また、これらの曲輪の北側には腰曲輪があります。
主郭から見下ろした様子です。切岸と落差を感じます。
詰めの丸から見た腰曲輪です。けっこう広さあります。
一旦、案内板のある鞍部に出て、今度は東の曲輪へと向かいます。
そこから振り返った鞍部の様子です。
ここも曲輪として機能していたことでしょう。
東の曲輪もよく削平されています。
縄張図でいうところの堀切ですが、曲輪と曲輪の連絡路とでも言うような通路です。
そして、その奥に細長い曲輪がありました。
遺構が良く残り、城域もある程度あり、見応えがありました。しかし、初期の城らしく、構造の安直さを感じます。また曲輪の優劣感がない城ですね。解釈次第では、主郭・2郭・3郭・4郭が変わるように思えました。それだけ、城主の権限がまだまだ確立されてないのでしょう。
最後に、山城の全景を紹介します。
山の中を歩き回るにはよい天気でした。
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