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1351シクノ谷峯構付城(兵庫県) [城印象記]

兵庫県三木市福井のシクノ谷峯構付城を紹介します。

より大きな地図で蔓草マップ を表示

昨日紹介した明石道峯構付城の西500mに位置します。連続して付城めぐりをすると、連携して防御している様子が実感されていきます。

史跡マップがありました。ここで三木合戦など確認しておきましょう。

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  三木合戦

 戦国時代の終わりごろ、織田信長から播磨平定の命を受けた羽柴(豊臣)秀吉が、東播磨を治めた三木城主別所長治を攻めた戦で、天正6年6月から天正8年1月(1578-80)までの約1年8か月に及ぶ兵糧攻めが行われました。別名「三木の干殺し」とも呼ばれる悲惨な戦いで、城主長治は、飢えに苦しむ城内の人々の命を救うため、自害し開城しました。

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  三木城攻め付城群

 三木城を兵糧攻めにするため、秀吉は平井山に本陣を築くとともに、三木城を包囲する30余りの付(陣)城を築き、三木城への兵糧搬入や援軍を完全に遮断しました。
 江戸時代に編集された地誌「播磨鑑」や絵図「三木城地図」などに、これらの付城群の記載が見られます。
 400年以上を経過した今も約半数の付城が残っています。

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  ○シクノ谷峯構付城

 この付城は、三木城を兵糧攻めにするため築かれた30余りの付城の一つで、絵図「三木城地図」に描かれていましたが、ホースランドパーク建設事業に伴って所在が確認されたものです。「宿の谷」と呼ばれる谷に張り出す尾根の先端部に築かれていることから、谷の名前に由来し「シクノ谷峯構」と呼んでいます。
 曲輪は、主郭と腰郭から構成され、主郭は四方を土塁で囲んだ東西約45m、南北約25~40mの規模で、南端の土塁中央部には約5×6mの方形の櫓台を築き、北西隅と北東隅の2か所に虎口(出入り口)を設けています。北東隅の虎口から続く腰曲輪は、主郭のような土塁囲みはなく、削平などの整地により平坦部を造り出しています。
 主郭、腰郭を合せた付城の範囲は約3,000m2で、西に隣接する平坦部を含めると約4,600m2となっています。
 なお、この付城を守った武将については、残念ながら分かっていません。

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とはいうものの、シクノ谷峯構付城についての案内は特にありません。あたりをつけて山の中に踏み込みます。比高は25m、丘の先になります。

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土塁が見えてきました。史跡マップにあったように、まさに「自然の中で歴史とふれあう」という状況です。

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暗くなりかけた林の中を、土塁、櫓台、虎口など確認しました。遺構は残っていますが、見慣れてないと判じ難いでしょうか。縄張図を持ちながら、日没までの時間を惜しむように歩き回りました。

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