1412東三河の西郷氏とは
昨日書いた萩平山城の近くにある西郷小学校の横にはこんな案内板がある。
西郷弾正と西郷校区
西郷校区には、昔、小野田庄、太陽寺郷等の呼び名があった。西郷の地名は文明十年(1478)頃発生した。又佐井天神、西郷弾正に由来するか否かは未だはっきりしないが西郷氏勢が岡崎より来た頃西郷と呼んだと思われる。
西郷氏は永正年中(1504-21)に嵩山に来て、天正十八年(1590)関東入りの時まで此の地を支配した。
五本松城、西川城、月ヶ谷城を本支城とし、その周辺にいくつかの砦を配しており、今日その多くの遺構を見ることができる。
桶狭間合戦の後、永禄五年(1562)遠州宇津山城主朝比奈泰長の軍に夜襲され、正勝、元正父子等七十数名が討死した。
西郷清員(後の西川城主)が城を奪回し、西郷家を再興して数々の武功をたて、更に又清員の妹の娘、お愛(西郷局)が浜松城徳川家康の側室となり、二代将軍秀忠公を産み、
徳川三百年の礎となったことは西郷家の不滅の栄誉である。
校区名「西郷」はこの西郷氏に由来すると考えられている。
西郷郷土史会 (※一部西暦年を加筆)
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以前から気になっている説明である。
岡崎より来た西郷氏勢とは三河守護代だった西郷氏のことだろう。
三河守護代西郷稠頼の子頼嗣は岡崎城(当時龍頭山城と呼んだ)を築城したが、北方から勢力を伸ばしてきた松平氏に屈服し、信光の子光重を婿として迎え入れ、大草(岡崎)松平となった。
その大草松平もその後安城松平の清康に攻めらた。新しく岡崎城主となった清康の孫にあたるのが家康だ。西郷氏は、清康に攻められたその時にこちらに逃げ落ちて来たというのだろう。
その西郷氏の娘を孕ませ、子が生まれた(秀忠)というのも、因果な話である。
こんな話を聞くと、信光の子光重が岡崎に入り込んだ話も秀忠誕生にまつわる話の伏線として創作されたのではと勘ぐってみたくもなる。
また単なる土豪である西郷氏を、こう脚色したのか、と思ったりもする。
西郷氏のことは、気になる歴史だ。
もっと確かなことを知りたい、と思うが、ただ思うばかりで何ら知識が増えることもなく、ただ時ばかりが過ぎて、年をとってしまった。もっと本を紐解きたいものなのだが・・。
看板もずいぶん傷んでしまったことだ。
西郷弾正と西郷校区
西郷校区には、昔、小野田庄、太陽寺郷等の呼び名があった。西郷の地名は文明十年(1478)頃発生した。又佐井天神、西郷弾正に由来するか否かは未だはっきりしないが西郷氏勢が岡崎より来た頃西郷と呼んだと思われる。
西郷氏は永正年中(1504-21)に嵩山に来て、天正十八年(1590)関東入りの時まで此の地を支配した。
五本松城、西川城、月ヶ谷城を本支城とし、その周辺にいくつかの砦を配しており、今日その多くの遺構を見ることができる。
桶狭間合戦の後、永禄五年(1562)遠州宇津山城主朝比奈泰長の軍に夜襲され、正勝、元正父子等七十数名が討死した。
西郷清員(後の西川城主)が城を奪回し、西郷家を再興して数々の武功をたて、更に又清員の妹の娘、お愛(西郷局)が浜松城徳川家康の側室となり、二代将軍秀忠公を産み、
徳川三百年の礎となったことは西郷家の不滅の栄誉である。
校区名「西郷」はこの西郷氏に由来すると考えられている。
西郷郷土史会 (※一部西暦年を加筆)
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以前から気になっている説明である。
岡崎より来た西郷氏勢とは三河守護代だった西郷氏のことだろう。
三河守護代西郷稠頼の子頼嗣は岡崎城(当時龍頭山城と呼んだ)を築城したが、北方から勢力を伸ばしてきた松平氏に屈服し、信光の子光重を婿として迎え入れ、大草(岡崎)松平となった。
その大草松平もその後安城松平の清康に攻めらた。新しく岡崎城主となった清康の孫にあたるのが家康だ。西郷氏は、清康に攻められたその時にこちらに逃げ落ちて来たというのだろう。
その西郷氏の娘を孕ませ、子が生まれた(秀忠)というのも、因果な話である。
こんな話を聞くと、信光の子光重が岡崎に入り込んだ話も秀忠誕生にまつわる話の伏線として創作されたのではと勘ぐってみたくもなる。
また単なる土豪である西郷氏を、こう脚色したのか、と思ったりもする。
西郷氏のことは、気になる歴史だ。
もっと確かなことを知りたい、と思うが、ただ思うばかりで何ら知識が増えることもなく、ただ時ばかりが過ぎて、年をとってしまった。もっと本を紐解きたいものなのだが・・。
看板もずいぶん傷んでしまったことだ。
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