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1273岡信に飾られてる徳川四天王のモニュメント

伝馬通りから西に歩いて東康生通りに入ると岡崎信用金庫中央支店さんがある。ここに飾られている徳川四天王のモニュメントがなかなかいい。反射してしまって画像がイマイチなので申し訳ないが、調子に乗ってもう一丁紹介記事を書くことにしよう。

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さて、四天王と家康公、いきますよ。

酒井忠次

三河国井田(岡崎市井田)出身、東三河旗頭・吉田城主(豊橋市)のちに山県庄内藩(鶴岡市)藩祖、孫の酒井忠勝が立藩 (藤沢周平の「武士の一分」のモデル)。
三方が原の戦いで、いち早く浜松城に退却、松明を灯し城門を開き大太鼓を打鳴らし武田軍の撤退を誘導した「酒井の大太鼓」の逸話は有名です。

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徳川家康

三河国岡崎城内(岡崎市康生町)出身、青年期に三河を平定、29歳から遠江浜松に、小田原攻め以降、関東(江戸)に移封、関が原の合戦を勝利し江戸幕府を開きました。
「厭離穢土・欣求浄土」大樹寺登誉上人の言葉を旗印に幾多の難題辛苦を乗り越え、100年余り続いた戦国乱世を平定し、戦国史上稀に見る265年にもおよぶ戦争のない世を築きました。
「天下は一人の天下にあらず、天下は天下の天下なり」(家康公遺言)

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井伊直政

遠江国井伊谷(浜松市)出身、上野国高崎藩(群馬)初代藩主、のちに近江国佐和山藩(彦根藩:彦根市)初代藩主。
武田の遺臣・赤備えの軍団を率いて戦国時代を駆け抜けた若き猛将。
関が原の合戦では家康公四男松平忠吉とともに先陣の福島正則隊を抜け駆けし、西軍を攻撃、将軍秀忠隊が遅参するなか、島津軍を追撃し合戦を勝利に導きました。

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榊原康政

三河国上野(豊田市上郷)の出身、上野(こうずけ)館林藩(埼玉)初代藩主、
「知勇兼備」にして最も人品高しと評された名将。康政の「康」は家康公の康を賜ったものであり、信頼厚く、二代将軍徳川秀忠の教育・補佐役になりました。姉川の合戦で、日輪無字の旗のもと、
敵朝倉軍の横側をつき、織田徳川連合軍を勝利に導きました。(「横槍を入れる」の語源)

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本多忠勝

三河国蔵前(岡崎市西蔵前町)の出身、上総大多喜藩(千葉)初代藩主、
伊勢桑名藩(三重)初代藩主。襷がけの大数珠が印象的な「花実兼備の勇将」
生涯57度の戦に臨み一度も刀傷を負わなかった勇将であり、敵から
「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭と本多平八」と賞賛されました。(一言坂の合戦)

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エピソードが盛り込まれていて楽しい。あきらかにおかしい記述も見受けられるが、これも愛嬌ある地元愛と目をつぶってやってください。

商店街には「江戸のふるさと岡崎」と書き込まれたデザインペナントが飾られていました。

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