0069桜桃忌
『新潮日本文学アルバム19太宰治』より
「池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる 左千夫歌」
6月の梅雨空に想うのはこの歌である。太宰治が玉川に入水するとき、親友伊馬春部にあてた短歌で、太宰の心境を伝える歌。
文学青年だったから、全集はいろいろと持っている。漱石・鴎外・直哉・荷風・賢治といったところから、小林秀雄まで。珍しいところでは、プラトンとか、湯川秀樹なんてのもある。しかし、大半は読んでない。まぁ全集は事典みたいなものだからと言い、文学にかぶれていた頃は、ともかく全集買わなくっちゃと思っていた。
しかし、人生の半分以上が終わってしまった今、やっぱり最期まで読まないんだろうなと思うとため息がでる。
そんな中で龍之介と並び、しっかり完読したのは、太宰治である。一時期はかなり入れ込んで読んでいたものだ。
20代の後半から30代前半は、無為に1年が過ぎ老けていくようで、年をとるのがいやだった。誕生月まえの6月は何故か心がふさぐ。
そんなとき、6月13日とか、6月19日が気になって、桜桃忌は心に刺さるようだった。
『新潮日本文学アルバム19太宰治』より
「子供よりも親が大事」
まぁ本音は、親というより自分ということなのであろう。でも「子供より自分が大事」と言ったら作品にならない。ちょっと恰好よく「子供より親が大事、と思いたい。子供のために、などと古風な道学者みたいな事を殊勝らしく考えてみても、何、子供よりも、その親のほうが弱いのだ。少くとも、~~~」と切り出したのだろう。
でも、その恰好よさは、「ぜいたくなもの」「珊瑚の首飾りのよう」な桜桃かも知れない。
「極めてまずそうに食べては種を吐はき、食べては種を吐き、食べては種を吐き」桜桃を食べてしまう。そして、「心の中で虚勢みたいに呟く言葉」が「子供よりも親が大事」なのである。
太宰にとって、文藝の作品は、桜桃のようなものだったのかも知れない、と思ったりするのである。
その「虚勢みたいに呟く言葉」に僕らはしびれている。
「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」ヴィヨンの妻
「全部、やめるつもりでいるんです。」グッド・バイ
「夜が明けて来ました。永いこと苦労をおかけしました。さようなら。」斜陽
「ただ、一さいは過ぎて行きます。」人間失格
そんな言葉、よくつぶやいていたなぁ。ヒロイックな気分に満たされて。
人間失格といえば、
「このひとは、まだ生きているのですか? さあ、それが、さっぱりわからないんです。」
こんなこと一人勝手につぶやいていたけれど、誰も気づかないよね。さっぱりわからない。…………
極めつけは、お伽草紙、カチカチ山のこれ、
「「あいたたた、あいたたた、ひどいぢやないか。おれは、お前にどんな悪い事をしたのだ。惚れたが悪いか。」と言つて、ぐつと沈んでそれつきり。」
ひとり、ぐっと沈んでそれっきり、なのでした。
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