0070御茶屋御殿(大阪府) [城印象記]
大阪府枚方市枚方元町の御茶屋御殿を紹介します。(2014/5訪城)
意賀美(おかみ)神社への参道を途中左に折れた先に御茶屋御殿跡展望公園があります。意賀美神社には2、3台ほど停めれる駐車場がありましたが、この細い路地をどう入り込んだら無事に着けるのかというような路地ばかりなので車は大変です。
わずかばかりの園地ですが、案内板がありました。
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御茶屋御殿跡
京・大坂間を結ぶ交通の大動脈、淀川と京街道を見下ろすこの地に豊臣秀吉が御茶屋御殿を建てたのは文禄4年(1595)のことです。三矢村に残る記録から秀吉が「御茶殿」を当地に建てたことが確認できます。伝承では、秀吉の家臣である枚方城主本多内膳正政康の娘「乙御前」をここに住まわせたとも言われています。
京都伏見と大坂に拠点を置いた秀吉は、この間をしばしば行き来していました。中間にあたる、ここ枚方の地にも立ち寄ったことでしょう。文禄5年(1596)の淀川堤防修築に際しては、対岸の大塚から枚方の工事の様子を上機嫌で眺めたとの話も残っています。
江戸時代に入ると、御茶屋御殿は幕府公用の施設になりました。元和9年(1623)には2代将軍徳川秀忠が、寛永3年(1626)には3代将軍家光が逗留したと記録に残されています。家光来訪の際には、秀吉が建てた「大茶殿」の脇に桁行5間、梁行3間の御殿が新築されました。
その後は利用されることもなく、「大茶殿」は承応3年(1654)老朽化により解体され、新築御殿がその用材の収納庫にあてられていました。しかし、延宝7年(1679)7月1日に起こった枚方宿の火事によって新築御殿もろとも全焼し、以後再建されることはありませんでした。
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遺構はないですが、園地は削平された曲輪のようです。台地先端部という地形は、中世には砦があったのかもというのが納得できます。
秀吉の時代、大坂図屏風にも描かれているそうです。
乙御前には秀吉はかなり入れこんでいたようなので、愛妾の住まいとして立派な居館だったのでしょうね。
「河内鑑名所記」という江戸時代の観光本にも3棟の優雅な桧皮葺の御殿として紹介されているそうです。
標高は30mほどでさほどの高台ではないのですが、展望は開けています。横たわる淀川。対岸の高槻、右手川上の京、左手川下の大阪、川に並行して走る道。往時なら更によい眺めだったことでしょう。
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