SSブログ

0072西尾城シンポジウム

昨日6月21日(土)、西尾城シンポジウムに行ってきました。そのレポートです。

0072-01.jpg

チラシにあるように西尾文化会館小ホールでありました。定員350名の席は満席で立ち見される方がいる程の人気ぶりでした。


第1部 基調公演

『東海地方の織田・豊臣城郭を探る-その成立と展開ー』中井均(滋賀県立大学教授)


第2部 発表

『考古学からみた西尾城』 浅岡優  (西尾市教育委員会)

『文献からみた西尾城』  小林輝久彦(大倉精神文化研究所 客員研究員)

『縄張りからみた西尾城』 奥田敏春 (西尾市史執筆員)


第3部 パネルディスカッション


以上がプログラムです。

西尾城をいろいろな専門の方が語るという趣向です。

0072-02.jpg

中井さんは、東海地方の城郭史にとって天正18年は画期的な年だと語ります。徳川家康の関東移封にともない、秀吉与力大名が東海各地に入りました。中村氏の駿府城と三枚橋城、堀尾氏の浜松城と二俣城、などのように本城と支城には極めて強い共通点がみられ、ここ三河に入った田中氏の岡崎城と西尾城も類似点が見られます。また、これを継起に織田豊臣の城が広がったそうです。その特徴は、石垣(高石垣)、瓦(金箔瓦)、礎石建物(天守)の3要素。

岐阜城、小牧山城、清洲城からはじまって赤木城など、巾広くいろいろな城郭をあげながら説明が進みました。

0072-03.jpg

2部の先頭は、西尾城発掘調査を行った西尾市教育委員会の浅岡さん。

天正13年の家康の改修で、丸馬出・障子堀が作られたようで、断定はできないようですが、自分は興味惹かれました。

二の丸ラインが長方形といった直線的なものではなく、緩やかに湾曲して膨らんでいたそうです。

三方沼の舌状台地突端に築かれた西尾城ですが、自然地形を生かしながら、なおかつそれを補修するようなかたちで城郭を整えていった経緯を、発掘物から物語ってくれました。

0072-04.jpg

文献学の小林さんは、創建期から江戸時代に入るまでの西尾城です。

創建は承久の乱(1221年)の武功で足利義氏が三河守となりこの地に築城したと言われるが、資料に乏しく、定かではないと思われるそうです。

小林さんの指摘の中で、方形館と城郭の違いを上げていたのが印象的で、当初は軍事的色彩のうすい武家屋敷だったはずで、今の西尾城の地は要害的すぎると言われてました。

かつては丸山御所あたりの方形館が中心で、京にいた吉良氏が下行して、領地経営に当たる、その時に今の西尾城が築かれたのではとあげていました。

そして、今川氏がはいり、徳川氏がはいり、田中氏がはいる。その変遷。
わかりやすいストーリーでした。

0072-05.jpg

奥田さんは、その話を引き継ぐような形で、江戸時代の絵図などをもとに西尾城の話を展開します。

西尾城は珍しく2の丸に天守が存在します。天正期には本丸土塁の上に天守があったようですが、どうも場所が大きくとれない、また、城下町からの見栄えを考慮してこの位置に決めたのではないか、と言ってました。近世城郭的な発想です。

近世西尾城がどんな様子であったか、絵図をもとに説明していただきました。
まだまだ、当時の動線など、はっきりわからない点もあり、課題は多いようです。

0072-06.jpg

質疑応答という形でパネルディスカッションがありました。質問は、余り多くはありませんでしたが、司会の石川さんが、総括的に話をまとめられ西尾城の移り変わりが、再確認されたようでした。

会場には、高田徹さんも来ておられ、会場にも話題を振ってました。
そして、なごやかな雰囲気の中、シンポジュームは幕を閉じました。

西尾での、こういうシンポジュームも珍しく、もっともっと多様な機会があるといいですね。

会場でシンポジュームのレジメ本を購入しました。1000円。

0072-07.jpg

あと、持ってなかったのでこちらも。800円です。
絵図が多く載っており、参考になりそうです。
「大給松平氏と城郭絵図」

0072-08.jpg

おまけに手ぬぐいいただきました。サンキュー!

0072-09.jpg

0072-10.jpg
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 3

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
0071枚方城(大阪府)0073西尾城(愛知県) ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。