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0737岡崎城菅生川端石垣発掘調査現地説明会

4/16(土)午後2時、岡崎ニューグランドホテル南側の菅生河原で、発掘調査の現説が行われた。これは、「乙川リバーフロント計画」の工事で河川敷を掘り起こしたところ地中にあった石垣が見つかったというものだ。

ちなみに、乙川の岡崎城下あたりを菅生川と呼ぶ。

14時から、広島大大学院三浦正幸教授のお話があった。

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地表に見える部分が2m、地中から掘り起こした部分が3m、高さ計5mの石垣が確認された。

これは絵図にあった石垣が、確かに現存したことが確認された発見で、このことから、寛永年間に築造された菅生川端石垣とわかったそうだ。全長が約400m、直線石垣としては日本最長のものになる。

5m×400m=2,000平方メートルの石垣というと、今建造すると約10億円くらいかかるそうで、10億円の徳川埋蔵金を掘り当てたようなものだと冗談を交えながら、いかにすごい石垣かを力説されていた。

しかも、絵図との確認で、3ヶ所の横矢桝形も確認された。横矢掛りができるように出っ張った石垣である。それまでは櫓のある石垣の出っ張りはあったけど、石垣だけの横矢桝形は珍しく、加えて直線上に3ヶ所もあるのは日本でここだけだろうと話されていた。

昔から五万石舟の発着場と言われてきた石垣の出っ張りが、実は、その横矢桝形のひとつだったとは、気が付かないものである。もっとも自分も気が付かなかったけれど、ちゃんと絵図があるというのに、多くの学者もちっとも気が付かないなんて、面白いものだなぁと感心した。

この大発見も、大発見と気が付いたのは、つい最近の3月のことらしい。石垣がある、更に石垣が出てきた、それって何、え、待てよ、絵図があるよね、まさか、えっ本当に、本当なんだ!

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会場は驚くほどの混雑ぶり。輪を囲むように先生の話を聞くのだが、大勢の人が集まり過ぎて危ないくらいの状態だった。

地元人の私はとりあえず現地を離脱した。

1時間ほどして戻ったのだか、まだこんなにも人がいた。

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確認できる石垣は約200mほどなのだが、地中に埋もれた部分が確認できるのはこの1ヶ所のみ。混むわけである。

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水が出てきてしまったので50cmくらいは堀残してあるそうだ。深さ2.5mはあまり実感されなかったが、立てかけたものさしでは、確かに4.5mある。

石垣そのものは野面積みで、寛永年間のものとしては古臭い積方かもしれない。ごく普通の石垣という感じではあった。

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現地はちょうどこのあたりになる。絵図があった。

(この絵図でもわかる通り、この現地の左側に3ヶ所の横矢桝形が確認できる。)

(と同時に岡崎城の大きさも感じてほしい。岡崎城は日本でも指折りの大きさを誇る近世城郭なのである。その外側も石垣で固められていた、すごい城なのだ。)

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それにしても、川に面して5mの石垣が400m直線的に続くのである。そのすごさがわかるようで、ピンとこないような、のどかな土手の石垣なのである。

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まずは、掘ってある現地から最初の横矢桝形。地表にでている部分はわずかである。これでは気付きにくいだろう。

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次は一番大きく横矢桝形が残っている、今までは五万石舟の船着き場と思われていた部分だ。五万石船のモニュメントがあるけれど、これらはどうなってしまうのだろう。五万石船があったことは間違いないだろうが。

上がってみると、確かに横矢が打てる。

同じ史跡が、今までとは、違って見えた。

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3ヶ所目の一番西になる横矢桝形にきた。ここでは、角の石垣が欠けていた。

見れば、藤棚下。そこからの階段通路になっている部分だ。土手に階段通路を作るのにちょうどよいでっぱりがあったというところなのだろう。気が付かなかった。こんなところで史跡破壊がされていたのか。

とはいうものの、ここも雰囲気が偲ばれる場所だった。

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石垣をつぶさに見ると、すだれ仕上げとよばれる「はつり」が見られたり、切り出した時の石鑿のあとがあったりして面白い。

けっこうバラエティに富んだ石垣である。

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三浦先生の前に概略の説明をした市職員の山口さんに教えてもらった刻印石。わかりにくいが、石垣に○が認められる。記号的な刻印なのだろう。

しかし、この長く続く石垣の中でよく見つけたものだ。このひとつだけらしい。

今度、岡崎城を案内する機会があったら、自慢して教えてあげよう。

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そんなこんなで、けっこう半日ふらふらと歩いていた。

三浦先生が、岡崎城本丸北側青海堀も、日本一というべき空堀とおっしゃられていた。近世城郭にして、中世城郭的な空堀で、円弧を描き、石垣が積まれている。

私にしては見慣れた光景なのだが、こんな空堀って、よくよく考えてみれば他にはないよねと思う。

岡崎城のすごさを実感した、よい現説だった。

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