1025岡崎城菅生川端石垣発掘調査現地説明会2017
1/29(日)、岡崎城菅生川端石垣発掘調査現地説明会があった。これは昨年あった発掘調査をより詳しく調査したということで、今年も行われた調査の説明会だ。ちなみに昨年の説明会についてはこちら。
0737岡崎城菅生川端石垣発掘調査現地説明会
http://mikawanokami.blog.so-net.ne.jp/2016-04-17
3代藩主本多忠利が寛永年間(1624-43)に築いたという石垣。菅生川の護岸を兼ねるような形で切れることなく直線的につながるもので、長さ400mにもおよび、途中に横矢桝形が3ヶ所もあり、その規模は日本最長のものと三浦先生が力説してくれた。
その菅生川端石垣を更に詳しく調査したということである。
陽射しの暖かな日で、大勢の方が詰め掛けていた。ご近所の方やら、城仲間の方もお見受けした。
担当の方が予定30分の説明をオーバーするほど、懇切丁寧に話してくれた。
ただ劇的な成果という程のものはなく、こうした発掘調査というものも地道な努力の積み重ねなんだな、と痛感した。
説明された場所や地中部分も見られたのが②の緑の部分だ。
その東側(右側)の部分の石垣。
その西側(左側)の部分の石垣。
東側は四角い石が並び横に目地が通っているが、西側は丸みを帯びた石が乱雑に積まれているような感じが見てとれる。これらの原因ははっきりわからないが、違いがいろいろとあることを説明されていた。
また全長400mという石垣の端を確定しようと調査された。
東端部分である。
北に(奥に)1.7m石垣が続くのを確認したが、その先で裏込め石があるものの石垣が失われていた。だから、本来の石垣はどういう形になっていたかは、結局ははっきりしなかったそうだ。ちなみに、この北には菅生門があったと絵図にはある。
また西端の調査でもはっきりわからなかったらしい。
西端は今の五万石藤棚のある下あたり。このあたりで辰之口という土橋があり、それに対してどう川端石垣は接続するのか。しかし、石垣の崩落が見られ、この地点より更に西側に続くのでは、と言うことだった。
ついでながら、岡崎城を菅生川と伊賀川の合流点にある城と勘違いされる方もおられるが、今の伊賀川はかつて城の堀だったところを川としたものである。
菅生川端石垣は城の南端でもあり、その東端と西端がはっきりしてくると、より城の輪郭もはっきりしてくると思うが、細部がなかなかはっきりしない結果となったようだ。
しかし、およそ400mにおよぶ石垣には違いない。再度、説明を聞き、改めて見直す石垣も楽しかった。
昨年教えていただいた刻印も今年は表示されていた。
というのも、昨年はこれひとつしか確認できていなかった。が、今年は、他にもいくつもの刻印が挙げられていた。
天下普請ではないので、工事に複数の大名が携わった訳ではないけれど、それでも作業上、石に印をつけたりした、という事実が確認できたということなのだろう。
石垣をつぶさに丁寧に観察し続けたからいろいろと見つかったのだろう。
石垣を見ながら歩いていると、子供の頃から石垣はあったという年寄りの声も聞えてきた。そうだろうと思う、自分もそう思ったりする。しかし、地中に埋もれた石垣もあり、5m×400mの長大な石垣とその価値をどれだけきちんと把握できていたのだろう、と考えたりする。
きちんと見ることの難しさを考える。
また2/19(日)にも現地説明会があるそうだ。また参加できるかはわからないけど、新しい話が聞けたらいいな。期待してます。
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0737岡崎城菅生川端石垣発掘調査現地説明会
http://mikawanokami.blog.so-net.ne.jp/2016-04-17
3代藩主本多忠利が寛永年間(1624-43)に築いたという石垣。菅生川の護岸を兼ねるような形で切れることなく直線的につながるもので、長さ400mにもおよび、途中に横矢桝形が3ヶ所もあり、その規模は日本最長のものと三浦先生が力説してくれた。
その菅生川端石垣を更に詳しく調査したということである。
陽射しの暖かな日で、大勢の方が詰め掛けていた。ご近所の方やら、城仲間の方もお見受けした。
担当の方が予定30分の説明をオーバーするほど、懇切丁寧に話してくれた。
ただ劇的な成果という程のものはなく、こうした発掘調査というものも地道な努力の積み重ねなんだな、と痛感した。
説明された場所や地中部分も見られたのが②の緑の部分だ。
その東側(右側)の部分の石垣。
その西側(左側)の部分の石垣。
東側は四角い石が並び横に目地が通っているが、西側は丸みを帯びた石が乱雑に積まれているような感じが見てとれる。これらの原因ははっきりわからないが、違いがいろいろとあることを説明されていた。
また全長400mという石垣の端を確定しようと調査された。
東端部分である。
北に(奥に)1.7m石垣が続くのを確認したが、その先で裏込め石があるものの石垣が失われていた。だから、本来の石垣はどういう形になっていたかは、結局ははっきりしなかったそうだ。ちなみに、この北には菅生門があったと絵図にはある。
また西端の調査でもはっきりわからなかったらしい。
西端は今の五万石藤棚のある下あたり。このあたりで辰之口という土橋があり、それに対してどう川端石垣は接続するのか。しかし、石垣の崩落が見られ、この地点より更に西側に続くのでは、と言うことだった。
ついでながら、岡崎城を菅生川と伊賀川の合流点にある城と勘違いされる方もおられるが、今の伊賀川はかつて城の堀だったところを川としたものである。
菅生川端石垣は城の南端でもあり、その東端と西端がはっきりしてくると、より城の輪郭もはっきりしてくると思うが、細部がなかなかはっきりしない結果となったようだ。
しかし、およそ400mにおよぶ石垣には違いない。再度、説明を聞き、改めて見直す石垣も楽しかった。
昨年教えていただいた刻印も今年は表示されていた。
というのも、昨年はこれひとつしか確認できていなかった。が、今年は、他にもいくつもの刻印が挙げられていた。
天下普請ではないので、工事に複数の大名が携わった訳ではないけれど、それでも作業上、石に印をつけたりした、という事実が確認できたということなのだろう。
石垣をつぶさに丁寧に観察し続けたからいろいろと見つかったのだろう。
石垣を見ながら歩いていると、子供の頃から石垣はあったという年寄りの声も聞えてきた。そうだろうと思う、自分もそう思ったりする。しかし、地中に埋もれた石垣もあり、5m×400mの長大な石垣とその価値をどれだけきちんと把握できていたのだろう、と考えたりする。
きちんと見ることの難しさを考える。
また2/19(日)にも現地説明会があるそうだ。また参加できるかはわからないけど、新しい話が聞けたらいいな。期待してます。
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