1069法性寺城 [岡崎の城をめぐる]
岡崎市法性寺町上屋敷。
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岡崎市史には法性寺村古屋敷という城館があり八田森右衛門が領していたことが記されている。中世の館城があったことだろう。
ただ場所や詳細はわからない。法性寺(地名)なら法性寺(寺)だろうということで法性寺を訪れた。
法性寺は平安中期、長和5(1026)年に天台座主であった暹賀(せんが)が創建し、中世には七堂伽藍と一山六坊があり大変な勢力で、和田山法性寺の号が地名にもなった、ということである。
そして、その内の大日堂にあたるのが、今残るお寺となった。
そこに、館城がどう絡んでくるのかは、もう空想の話でしかない。
お寺もごく普通サイズ。それでも伝教大師の「一隅を照す此れ則ち国宝なり」の言葉が刻まれ、天台宗のお寺なんだと思ったが、盛時の面影はない。
お城の遺構や痕跡も感じられるものはない。
でも、法性寺町の法性寺たる由縁の法性寺を訪ね、往時を偲ぶのであった。
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岡崎市史には法性寺村古屋敷という城館があり八田森右衛門が領していたことが記されている。中世の館城があったことだろう。
ただ場所や詳細はわからない。法性寺(地名)なら法性寺(寺)だろうということで法性寺を訪れた。
法性寺は平安中期、長和5(1026)年に天台座主であった暹賀(せんが)が創建し、中世には七堂伽藍と一山六坊があり大変な勢力で、和田山法性寺の号が地名にもなった、ということである。
そして、その内の大日堂にあたるのが、今残るお寺となった。
そこに、館城がどう絡んでくるのかは、もう空想の話でしかない。
お寺もごく普通サイズ。それでも伝教大師の「一隅を照す此れ則ち国宝なり」の言葉が刻まれ、天台宗のお寺なんだと思ったが、盛時の面影はない。
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でも、法性寺町の法性寺たる由縁の法性寺を訪ね、往時を偲ぶのであった。
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