1189地黄城(大阪府) [城印象記]
大阪府豊能郡能勢町地黄の地黄城(地黄陣屋)を紹介します。
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今は廃校になってしまいましたが、能勢町立東中学の場所が地黄城です。
校門が城の虎口で、石垣が見事です。
案内板も、碑もあります。
地黄城址(地黄御陣屋・丸山新城)
旗本 能勢氏の居城
築城 慶長7年(1602)-元和元年(1615)
ここ東郷地域は城門遺跡や古墳群がみられ、さらに律令下では朝廷の典薬寮園となり、古くから政治文化のさかえた土地柄である。
平安後期、多田満仲の一族が能勢に入部して土豪化し、のち国基になって能勢郡を領有、はじめて能勢氏を名乗り、西方の丸山城を本拠地とした。
戦国争乱は能勢氏にもおよび、天正10年(1582)本能寺の変には明智方に加担、そのため秀吉配下の河原長右衛門宣勝らの乱入をうけて、丸山城をはじめ城下は焼野原となった。
城主頼次は能勢を離散、以後領主は高山右近をはじめ、数代を経て天正16年(1588)島津氏の管掌するところとなった。
能勢氏中興の祖といわれた能勢頼次は、関が原の合戦には東軍に組みし、軍功により旧領・預地をあわせ1万石余が宛がわれた。
頼次は領内の野間社(布留の宮)の再建を手はじめ、ついで新らしく「地黄城」と、城下町の構築に着手した[慶長7年(1602)]。
普請奉行山田彦右衛門の縄張りにより、東西75メートル・南北110メートル・面積8200平方メートル、さらに大手・搦手・裏には堀をめぐらし、四方には石垣を高く築き高塀が設けられた。
城内には御殿・官宅をはじめ拾数屋舎が配され、北隅には三層の楼閣がきわ立った。普請完成は元和元年(1615)とされている。
近世初頭の陣屋城として偉容をを輝かせたが、星はうつりて明治2年(1869)藩籍奉還となるや、旗本能勢氏(4千8石)も累代祖霊の見守る中終焉をつげたのである。
○慶長7年(1602)-元和元年(1615)、丸山城から現在地に新城として築城。
○北側の石垣は「印内積み」といわれ、河原長右衛門宣勝の領民が宣勝助命の恩義のために築く。
○明治2年(1869)12月2日、上地、以後会議所として使用。
○明治8年(1875)第2番小学校(地黄小学校)開設。
○明治12年(1879)-明治14年(1881)能勢郡役所。
○昭和34年(1959)能勢町立東中学校。
清和源氏 頼光流
能勢
国基-国能-保頼-頼綱-頼仲-長頼-頼任-頼連-頼澄-
頼時-之頼-元頼-頼勝-頼明-頼幸-頼次-以下十代を経て明治維新となる。
(寛政重修諸家譜)
平成6年3月 能勢町教育委員会
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今はここを車で抜けて内部に駐車することができます。
桝形を振り返ったところです。
というのも、かつての校庭はただの原っぱになっていました。
その風景に驚かされました。以前訪れたのはもう10年以上前です。確か体育館があって、学校の設備がまだ何かあったような気がするのですが・・・。
校庭の隅には大きな城址碑があります。
この城址碑の右奥の石垣もなかなかいい感じです。四周を石垣が囲ったという片鱗をうかがえます。
まだ上の段には廃校になった校舎が残っているのですが、気分は何にもない何にもない、でした。
かつては、学校ということで気を使って見学したことでしょうが、何もなくなってよかったのでしょうか。
周囲を歩きながら、考えさせられたのでした。
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今は廃校になってしまいましたが、能勢町立東中学の場所が地黄城です。
校門が城の虎口で、石垣が見事です。
案内板も、碑もあります。
地黄城址(地黄御陣屋・丸山新城)
旗本 能勢氏の居城
築城 慶長7年(1602)-元和元年(1615)
ここ東郷地域は城門遺跡や古墳群がみられ、さらに律令下では朝廷の典薬寮園となり、古くから政治文化のさかえた土地柄である。
平安後期、多田満仲の一族が能勢に入部して土豪化し、のち国基になって能勢郡を領有、はじめて能勢氏を名乗り、西方の丸山城を本拠地とした。
戦国争乱は能勢氏にもおよび、天正10年(1582)本能寺の変には明智方に加担、そのため秀吉配下の河原長右衛門宣勝らの乱入をうけて、丸山城をはじめ城下は焼野原となった。
城主頼次は能勢を離散、以後領主は高山右近をはじめ、数代を経て天正16年(1588)島津氏の管掌するところとなった。
能勢氏中興の祖といわれた能勢頼次は、関が原の合戦には東軍に組みし、軍功により旧領・預地をあわせ1万石余が宛がわれた。
頼次は領内の野間社(布留の宮)の再建を手はじめ、ついで新らしく「地黄城」と、城下町の構築に着手した[慶長7年(1602)]。
普請奉行山田彦右衛門の縄張りにより、東西75メートル・南北110メートル・面積8200平方メートル、さらに大手・搦手・裏には堀をめぐらし、四方には石垣を高く築き高塀が設けられた。
城内には御殿・官宅をはじめ拾数屋舎が配され、北隅には三層の楼閣がきわ立った。普請完成は元和元年(1615)とされている。
近世初頭の陣屋城として偉容をを輝かせたが、星はうつりて明治2年(1869)藩籍奉還となるや、旗本能勢氏(4千8石)も累代祖霊の見守る中終焉をつげたのである。
○慶長7年(1602)-元和元年(1615)、丸山城から現在地に新城として築城。
○北側の石垣は「印内積み」といわれ、河原長右衛門宣勝の領民が宣勝助命の恩義のために築く。
○明治2年(1869)12月2日、上地、以後会議所として使用。
○明治8年(1875)第2番小学校(地黄小学校)開設。
○明治12年(1879)-明治14年(1881)能勢郡役所。
○昭和34年(1959)能勢町立東中学校。
清和源氏 頼光流
能勢
国基-国能-保頼-頼綱-頼仲-長頼-頼任-頼連-頼澄-
頼時-之頼-元頼-頼勝-頼明-頼幸-頼次-以下十代を経て明治維新となる。
(寛政重修諸家譜)
平成6年3月 能勢町教育委員会
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今はここを車で抜けて内部に駐車することができます。
桝形を振り返ったところです。
というのも、かつての校庭はただの原っぱになっていました。
その風景に驚かされました。以前訪れたのはもう10年以上前です。確か体育館があって、学校の設備がまだ何かあったような気がするのですが・・・。
校庭の隅には大きな城址碑があります。
この城址碑の右奥の石垣もなかなかいい感じです。四周を石垣が囲ったという片鱗をうかがえます。
まだ上の段には廃校になった校舎が残っているのですが、気分は何にもない何にもない、でした。
かつては、学校ということで気を使って見学したことでしょうが、何もなくなってよかったのでしょうか。
周囲を歩きながら、考えさせられたのでした。
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