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1386為朝館(東京都) [城印象記]

東京都大島町元町の為朝館を紹介します。

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源為朝が流されたところ、それが伊豆大島でして、伊豆大島行きの目的のひとつでした。その為朝の館跡が残っています。

細い路地にありますが、わかりやすい場所だと思います。

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赤門

 弓の名人といわれた鎮西八郎源為朝が、保元の乱に敗れて捕えられ、大島へ流され住んでいた館の跡と伝えられる。後に代官屋敷となったところともいわれ、為朝のため特に許されたという格式ある朱塗の門から通称「赤門」と呼ばれている。
 屋敷内には戦いに備えたという物見台、抜け穴などもあり、奥まった木立の中には「為朝神社(頭殿神社)」がある。

 平成5年3月 大島町

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朱塗りの門がいい感じであります。もっとも今では、門内は更地になって、神社や物見台など何もないようでした。

すっかり館としてのモニュメントです。

この位置に館があった、そのことを体感できたのが収穫でしょうか。

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また浜の湯のある長根浜公園には為朝公碑があります。

鎮西八郎源為朝の活躍を記した案内があるので紹介しましょう。

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    頌源八郎公碑(為朝の碑)

 稀代の英雄、弓の名人と伝えられる鎮西八郎源為朝の武勇を称えた記念碑。
 「保元物語」や「椿説弓張月」によれば、保元の乱に敗退した為朝は、捕えられて伊豆の大島へ流罪となる。
    保元元年(1156)
 大島での為朝は流人の身でありながら、伊豆の島々を征圧し勢力を張りはじめた。このことが朝廷に伝わり、命を受けた伊豆の狩野茂光が軍船を率いて為朝討伐に大島へ攻め寄せる。
 総大将為朝は自ら乳ヶ崎の先端にて防戦に努め、得意の強弓で軍船を沈めるなど奮迅の活躍をするが多勢に無勢、遂に自刃して果てる。時に為朝三十二歳。
    嘉応二年(1170)
 この碑は、大正8年(1919)東京府内務部長岩田衛氏が、島司大嶋享蔵氏と謀り広く賛同を得て建立したもので、碑文は風蝕により判読できないが原文によると「為朝が大島に流罪となった経緯、武勇を賞賛、その英雄の霊を慰め、更には島の男子の雄心を鼓舞することができれば幸い」との意が刻されてある。

    大島町

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伊豆の島々を征圧したという武勇伝が記されていますが、すごい人だったんでしょうね。

2mを越える巨体で剛弓の使い手。無双の弓矢の達者。

乱暴者で若い頃九州に追放された時は、九州を平らげて鎮西八郎名乗ったそうです。

そして、この時亡くならず、実は琉球へ逃れ、子供が初代琉球王舜天になったという伝説もあります。

その桁外れなすごさは八丈島へ行った時知ったのですが、やっとその為朝が流された伊豆大島にきました。

元町港と並ぶもうひとつの玄関岡田港には、赤御影石に源為朝が描かれていました。

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