0019カルネアデスの舟板
カルネアデスの舟板という問題を思い出した。
古代ギリシャの哲学者カルネアデスが考えたという命題である。
舟が難破して、海に流されたひとりの男。そこに一人がやっと助かる程度の板切れが見つかり、しがみついた。するとそこへもう一人の男が流されてきた。このままでは、溺れ死んでしまう。かといって、二人で板を掴めば、やはり沈んで、二人とも溺れ死んでしまう。あなたならどうする、そういう命題である。
カルネアデスは、先にしがみついた男が、後から流されてきた男に板切れを渡さず、自分だけが助かってしまったが、後から罪に問われなかったとしている。
ここから、西洋の緊急事態での正当防衛ってのに繋がるのかなぁと思う。
つらつら考えていると、アメリカや西欧諸国がやっていることって、こういう解決方に沿っているのかなぁと思う。
命題には逃げ道はなくて、そうしう状態の時、どうすべきかをじっくり考えさせてくれる命題ほど、いい命題なんだろう。
しかし、交互に板切れにつかまり助けを待つ、とか、更に流れてくる板切れを見つけるようにする、というのは無しなのかなぁ。
交互に板切れにつかまる、分け合いの方式は、共産的発想かな。尻貧にならないだろうか。最後の最後まで、等しく、そして仲良しでいられるだろうか。
更に流れてくる板切れを見つける、こういう発想って日本人的だな、と思う。前向きな解決方法だけど、悪くとれば問題の先送り。本当にそんなふうに頑張れるのか、タテマエだけじゃないのか、と茶々をいれたくなる。
最近、気付いた解決方法がある。二人とも沈んでしまう、ということだ。
そんな馬鹿げたこと、何の解決にもならないじゃないか、何もプラスにならないじゃないか、と思い込んでた。でも、物質的なことは度外視して、心の問題だけを考えてみたらどうだろう。
自分の命を差し出して、人を救う。人を突き飛ばして自分だけが助かると考えるより、どれだけ心は倖せなのか。
年をとったせいなのか、素直にそんな考えが浮かぶようになってきた。
インド人だったら、そんな解決を選ぶか。
しかし、でも、そんな方法選びたくないな。
自分より相手を助けたい、だから更に流れてくる板切れを探すんだ。例え沈んだとしても、その気持ちで頑張る。
どうだろう、こんなふうに考えてみるのは。