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0358一郷山城(群馬県) [城印象記]

群馬県高崎市吉井町多比良字中城の一郷山城を紹介します。



牛伏山にかつてあった山城です。今は牛伏山展望台という模擬天守が建っています。

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ここまで車で上がってこれます。

こういうものを見るのが好きな方なので、割と楽しまさせていただきました。鬼瓦などは、藤岡市を意識しているのでしょうね。

ここからの眺望は抜群です。そういうのも好きです。

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しかし、もちろん中世山城ですから、こんな天守閣風の建物など全く無関係です。この展望台のお陰で、ずいぶん遺構は破壊されたようです。本当にお城が好きで、歴史的なことに敬意を払っているならとてもできない荒業でしょう。

本来なら展望台に連なる尾根にも遺構はあったはずで、それさえも壊してしまうのは、どういう考えなのでしょうか。

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説明板がありました。

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  牛伏山展望台

 牛伏山は、標高四百九十一メートル、万葉集に「多胡嶺」と詠まれ、「多胡美人」と呼ぶ朝日岳、羊太夫ゆかりの八束山と合わせ、「吉井三山」といわれる三山の主峰でで、その姿が臥牛に似ているので「牛伏」とよばれたのであろう。
 牛伏山は東西二峰から成り、西峰は金毘羅山とよばれ、東峰は一郷山という。
 永い歴史の中で、さまざまな事件がこの地をめぐって起きてきた。特に、この一郷山にかかわる事件がある。
 永享十年(一四三八)関東管領上杉憲実は、鎌倉公方足利持氏と争い、鎌倉を退き、平井城(藤岡市西平井)に拠った。
 その頃、平井城西方の守りとして、新堀城(多比良城)と共に築城され、一郷山城は、山頂にあることから、のろし台としての任務が主なものであったろう。
 永禄六年(一五六三)二月、西上州侵略を図る武田信玄は、攻略の緒戦として、一郷山城を攻めた。
 防戦のため、山頂から落とした大石は、真下の見銘寺を押し潰し、火災となり、城は全焼、将兵は全滅、婦女子は急崖に身を投げ、落城した。ついで新堀城も攻略された。
 幾多の哀歓を秘めた牛伏一帯は、緑豊かな吉井町の象徴として、新たな装いをはじめた。洞窟観音が祀られ、自然遊歩道や動物園が整備され、誰もが憩える安らぎの場となっている。
 そこで、上信越自動車道開通を期に、由緒ある一郷山城跡に、「牛伏山城展望台」を開設した。

 一階 地元特産品の紹介・展示・即売
 二階 吉井町の歴史・文化・観光資料展示
 三階 東西南北を見渡す展望台

 平成元年十二月 高崎市

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なんとなくはわかるのですが、突き詰めていくとよくわからない文章です。

1.のろし台が主なといいながら婦女子も籠っていたのか。
2.のろし台が主な一郷山城が新堀城に先駆けて攻められたのか。
3.武田軍が強いのではなく、自滅的な出火で落城したのか。

説明が下手なのか、充分理解せずうわっつらを記述しているのか、そんなところではないでしょうか。

そんなことだから、この遺構は消してしまったんだと思うとやり切れない気持ちでいっぱいになります。公園にして、展望台を建てたって、もう少し気の利いたやり方があったはずじゃないでしょうか。

のろし台が主なと言っているけど、私はそれなりの山城があったように思えてなりません。市は過小評価しているのでしょう。


営業時間が午前9時~午後5時(冬季午後4時)です。見学が無料なのは嬉しいですが、登ってくる道路の入口に門扉があって締められてしまいます。降りないといけません。

実は、その道路を降りてきた曲がり角の下に堀切が残っています。公園開発した人たちも見逃したんですかね。写真で見難いのが残念ですが、割とはっきりしています。

この残った遺構を眺め、しみじみと考えさせられました。

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