1405年賀状戦線異状あり
お年玉くじの引き換えをした。少し遅い話ではあるが、例年このくらいの時期にいただいた賀状のチェックなどをしている。
今年は、年賀状のやり取りも大きな変化を感じた。
まず、はがきの値段が上がった。もうすっかり郵便とは縁が遠くなってしまったので、そのことはほとんど無関心だったが、正月は特別料金で、1/8到着分から追加分を払わないといけないらしい。そのせいか、1/6到着した年賀状が最後で、パタっと終わってしまった。
いつもなら、今頃なんで、と言いたいくらい1月の後半でも賀状が届いたりした。時には、賀状は照れ臭いのか、封書が届いたり、電話がきたりしたが、今年はそんな動きが全くなかった。
ほとんどが1/1着であと1/3着を入れると9割方ここで届いた。実にスッキリとした年賀状だった。
それから、思えば喪中欠礼の挨拶も少なかった。例年なら2ケタのものがあるが、今年(昨年)は3通だけだった。これは、奥さん・本人(家族代筆)・親とあったが、いよいよ親世代の喪中欠礼から、当人世代のものへと変わりつつあるのか、と年をとったことを痛感する。
それにして、ひょっとしたら、もう儀礼的なものはいいか、と葉書の値上げと同じくして喪中欠礼を止めた人もいるのかな、と思ったりする。
と言うのは、賀状受け取りは、今年もぐっと減った。
この数年、年配の方では、あの人どうしているのかな、という人から、この季節に亡くなられたことを知らせる通知があったりして、年賀状のみになってしまった交友も、こうして終わっていくのかと、ひとり合点していた。
ただ、何もなく終わっていくのは寂しい。
でも、年賀状のみのつながりだから仕方ないのか。
実は賀状の宛名書きは筆ぐるめを使っている。差出先を決めるのが、ソフトとは関係なく大変なことではあるが、その後は、楽で、早い。便利だ。もう昔のように、名簿を整理して手書きで書くなんてことは考えられない、と思ったりする。
そんな昨今の状況だが、なぜか年末は筆ぐるめが起動せず焦った。一年に一度しか起動しないのである。その間、周囲の環境はどんどん変わっているのである。不具合があったとしても可笑しくはない
プリンターにしても、年に一度くらいしか使わないのである。それではよくないと、今では無理やり印刷する様な機会を作ったりしている。
専用ソフトが壊れ、プリンターが壊れたら、年賀状どうしようか、そう思ったりする。
というのも、年賀状止めます宣言をする人が増えた。年齢などを理由にする人も多いが、ま、いろいろな事情や思いがあるのだろう、それはそれで否定しないけれど、残念なことには違いない。
じゃ、自分はと思った時、年賀状のやりとりという本質的なこと以上に、こうした周辺事情が大きく作用するのだろうな、と思ったりする。
賀状のやりとりが減るのは構わない。が、やっかいなことはそのことでない。
賀状のやりとりがある、それだけ親しい人という構図ではなく、ただそれがやりやすいという人が賀状交換しているだけで、そこに親しい人が必ずいる訳ではない、という現実。
(いや、それでもちゃんと親しい人との賀状交換はある。当然あるけど・・。)
このことを痛感する。
交流する場や方法はいくらでもある。郵便(手紙・はがき)ネット(メール・ライン・プチメール・SNS)電話・・・、でもいずれも、それが全てではないのだ。
その大きな流れを見ると納得せざるを得ないことばかり。
年賀状も大きく変わりつつあるとしみじみ思うのだ。
今年は、年賀状のやり取りも大きな変化を感じた。
まず、はがきの値段が上がった。もうすっかり郵便とは縁が遠くなってしまったので、そのことはほとんど無関心だったが、正月は特別料金で、1/8到着分から追加分を払わないといけないらしい。そのせいか、1/6到着した年賀状が最後で、パタっと終わってしまった。
いつもなら、今頃なんで、と言いたいくらい1月の後半でも賀状が届いたりした。時には、賀状は照れ臭いのか、封書が届いたり、電話がきたりしたが、今年はそんな動きが全くなかった。
ほとんどが1/1着であと1/3着を入れると9割方ここで届いた。実にスッキリとした年賀状だった。
それから、思えば喪中欠礼の挨拶も少なかった。例年なら2ケタのものがあるが、今年(昨年)は3通だけだった。これは、奥さん・本人(家族代筆)・親とあったが、いよいよ親世代の喪中欠礼から、当人世代のものへと変わりつつあるのか、と年をとったことを痛感する。
それにして、ひょっとしたら、もう儀礼的なものはいいか、と葉書の値上げと同じくして喪中欠礼を止めた人もいるのかな、と思ったりする。
と言うのは、賀状受け取りは、今年もぐっと減った。
この数年、年配の方では、あの人どうしているのかな、という人から、この季節に亡くなられたことを知らせる通知があったりして、年賀状のみになってしまった交友も、こうして終わっていくのかと、ひとり合点していた。
ただ、何もなく終わっていくのは寂しい。
でも、年賀状のみのつながりだから仕方ないのか。
実は賀状の宛名書きは筆ぐるめを使っている。差出先を決めるのが、ソフトとは関係なく大変なことではあるが、その後は、楽で、早い。便利だ。もう昔のように、名簿を整理して手書きで書くなんてことは考えられない、と思ったりする。
そんな昨今の状況だが、なぜか年末は筆ぐるめが起動せず焦った。一年に一度しか起動しないのである。その間、周囲の環境はどんどん変わっているのである。不具合があったとしても可笑しくはない
プリンターにしても、年に一度くらいしか使わないのである。それではよくないと、今では無理やり印刷する様な機会を作ったりしている。
専用ソフトが壊れ、プリンターが壊れたら、年賀状どうしようか、そう思ったりする。
というのも、年賀状止めます宣言をする人が増えた。年齢などを理由にする人も多いが、ま、いろいろな事情や思いがあるのだろう、それはそれで否定しないけれど、残念なことには違いない。
じゃ、自分はと思った時、年賀状のやりとりという本質的なこと以上に、こうした周辺事情が大きく作用するのだろうな、と思ったりする。
賀状のやりとりが減るのは構わない。が、やっかいなことはそのことでない。
賀状のやりとりがある、それだけ親しい人という構図ではなく、ただそれがやりやすいという人が賀状交換しているだけで、そこに親しい人が必ずいる訳ではない、という現実。
(いや、それでもちゃんと親しい人との賀状交換はある。当然あるけど・・。)
このことを痛感する。
交流する場や方法はいくらでもある。郵便(手紙・はがき)ネット(メール・ライン・プチメール・SNS)電話・・・、でもいずれも、それが全てではないのだ。
その大きな流れを見ると納得せざるを得ないことばかり。
年賀状も大きく変わりつつあるとしみじみ思うのだ。
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