0297生田城 [岡崎の城をめぐる]
岡崎市美合町生田屋敷。
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田んぼの真ん中にぽつんと碑が建っている。立派な碑だ。
「生田城址」とある。「しょうだ」と読む。
小さな説明の石板もあって、そこにはこう記されている。
生田城
明和年間生田四郎重勝が徳川家康公の姫御前が豊前の国中津藩に御輿入れになった際に付添武士として栄任され時の庄屋本間幾右ヱ門重勝に其の後始末を一任され廃城となった。
明和年間といえば、1764~1772年、江戸時代中頃のことであろう。家康公はとっくに亡くなっているし、姫御前というのは奥平氏に嫁いだ長女亀姫のことであろうか。明和年間には豊前中津藩は奥平氏が藩主だったが、家康公存命の頃はまだ豊前中津とは関係もない。意味不明の文章である。
城址碑の裏には「昭和五十五年五月吉日本間淳治建之」とある。きっと本間重勝の子孫の方が建てたのだろう。何かしらの根拠があっての文章、それが省略が多くて意味がとれない文章になっているものと思われる。
昭和初期には、高さ3m幅5m長さ30mほどの土塁とその両側に堀があっという。
今わかるのはその程度のことだ。何かいわれのある土地で、いわれのある方が代々庄屋として土地を引き継いできたのだろう。その最期の耕地整理で、今の風景になっていると理解したい。
なお、この地は、小豆坂の合戦の戦場となったひとつとも言われている。境の重要拠点でもあったわけだ。今は県道48号線、岡崎刈谷線の終点近くになる。
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田んぼの真ん中にぽつんと碑が建っている。立派な碑だ。
「生田城址」とある。「しょうだ」と読む。
小さな説明の石板もあって、そこにはこう記されている。
生田城
明和年間生田四郎重勝が徳川家康公の姫御前が豊前の国中津藩に御輿入れになった際に付添武士として栄任され時の庄屋本間幾右ヱ門重勝に其の後始末を一任され廃城となった。
明和年間といえば、1764~1772年、江戸時代中頃のことであろう。家康公はとっくに亡くなっているし、姫御前というのは奥平氏に嫁いだ長女亀姫のことであろうか。明和年間には豊前中津藩は奥平氏が藩主だったが、家康公存命の頃はまだ豊前中津とは関係もない。意味不明の文章である。
城址碑の裏には「昭和五十五年五月吉日本間淳治建之」とある。きっと本間重勝の子孫の方が建てたのだろう。何かしらの根拠があっての文章、それが省略が多くて意味がとれない文章になっているものと思われる。
昭和初期には、高さ3m幅5m長さ30mほどの土塁とその両側に堀があっという。
今わかるのはその程度のことだ。何かいわれのある土地で、いわれのある方が代々庄屋として土地を引き継いできたのだろう。その最期の耕地整理で、今の風景になっていると理解したい。
なお、この地は、小豆坂の合戦の戦場となったひとつとも言われている。境の重要拠点でもあったわけだ。今は県道48号線、岡崎刈谷線の終点近くになる。
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