0336浦城(三重県) [城印象記]
三重県鳥羽市浦村町字今浦の浦城を紹介します。
麻生の浦(おおのうら)大橋のたもとの丘になります。20mほどの高さで、湾の狭隘な部分の高台になり、城を構えるには良い位置です。ただ規模は小さく、これでは、砦レベルかなと思われます。
が、志摩十三地頭の一人浦豊後の居城だそうです。永禄(1558-70)年間、九鬼嘉隆により攻め滅ぼされました。
主郭は割と広く畑になっています。
南に一段低く、曲輪があります。
それにしても、一段低い南の曲輪と主郭とでどう行き来したんでしょうね。切岸状になっており、2~3mの落差があります。梯子でも掛けたのでしょうか。
曲輪はこのふたつです。
畑になっているせいか、海側からと集落側からの登り道がありました。
集落側からの道は少し広く、主郭の北側を回り込んであがります。実は、この主郭部ですが北側にうっすらと土塁のあとが見られます。
そして、石積みなども見られます。主郭部が畑になっているだけに、後世的なものじゃないかという疑いが消えませんが、もしそうだとしても、石を再利用したかもしれません。
見て回ると北側だけ石が残っているようです。
併せて考えるとこちらに大手筋の道があったのじゃないかな、そんなふうに想像してみました。
あまり城の機能を感じないのですが、展望の良いところに海賊の親分が陣取っていたってことでしょう。
静かな入江が見下ろせます。
麻生の浦(おおのうら)大橋のたもとの丘になります。20mほどの高さで、湾の狭隘な部分の高台になり、城を構えるには良い位置です。ただ規模は小さく、これでは、砦レベルかなと思われます。
が、志摩十三地頭の一人浦豊後の居城だそうです。永禄(1558-70)年間、九鬼嘉隆により攻め滅ぼされました。
主郭は割と広く畑になっています。
南に一段低く、曲輪があります。
それにしても、一段低い南の曲輪と主郭とでどう行き来したんでしょうね。切岸状になっており、2~3mの落差があります。梯子でも掛けたのでしょうか。
曲輪はこのふたつです。
畑になっているせいか、海側からと集落側からの登り道がありました。
集落側からの道は少し広く、主郭の北側を回り込んであがります。実は、この主郭部ですが北側にうっすらと土塁のあとが見られます。
そして、石積みなども見られます。主郭部が畑になっているだけに、後世的なものじゃないかという疑いが消えませんが、もしそうだとしても、石を再利用したかもしれません。
見て回ると北側だけ石が残っているようです。
併せて考えるとこちらに大手筋の道があったのじゃないかな、そんなふうに想像してみました。
あまり城の機能を感じないのですが、展望の良いところに海賊の親分が陣取っていたってことでしょう。
静かな入江が見下ろせます。
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