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0410大友城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市西大友町字天神。



山田柾之さんの「史跡散策愛知の城」によると、「『三河国二葉松』に「西大友の南、字平城にあり。石川三蔵元長、同右衛門章長が居住す。元長は河内国石川郡駒谷の住人石川備前守元章の子孫なり」とある」として、西大友公民館あたりに石川家の広大な屋敷があったという。

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なるほど、そういうことかと了解していたが、愛知県中世城館跡調査報告2(西三河地区)では、石川氏所縁の安受寺を意識し、地籍図などをあげて、このあたりではないかと類推していた。かつては土塁囲みの屋敷が集まっていたようだ。



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東大友町字稲葉の地、しかし、これも推定であってはっきりしない。

いや、どちらの位置も含む広大な屋敷かもしれない。

どちらも住宅地で城の痕跡は感じられなかった。新しい住宅、古い住宅と混ざっていて、古い住宅の広いところでは、昔の名残の土塁がひょっとしたらあるのかもしれないが、歩いた限りでは見られない。

岡崎市の住宅地図を見て調べてみたが、字平城という地名は今は残ってないようだ。

ただ、石川某というこのあたりの権力者がいて勢力を振るっていて、その館城がこのあたりにあったのはまちがいないだろう。

今も、石川さんのお宅は何軒もあった。

(松平氏に仕えた石川康正・石川数正と繋がりがあるのかはよくわからない。河内国から下ってきたことといい、多分、大きくいって一族なのかも知れない。)

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ちなみに大友は、大友皇子に謂れする。壬申の乱で敗れた大友皇子は、自害したといいふらし、物部・村主・長谷部などの諸氏とともにこの地へ逃れた。

その草庵址が西大友町公民館近くの大友天神社だ。

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が、この草庵址についても、安受寺近くの東大友公民館にも丸藪之館碑が建っている。位置の詳細ははっきりしない。

まあ、このあたりに関係するということで話を止めようか。

ついでながら、大友は「おおども」と呼んでいる。昔は普通に「おおども」と言っていたと思うが、新しく住宅の増えたところでもあり、今は「おおとも」と濁らない人が多いような気がする。でも、郵便番号検索で地名を調べてみたら「おおども」となっていた。

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