0668堀内氏屋敷(和歌山県) [城印象記]
和歌山県新宮市千穂の堀内氏屋敷を紹介します。
市内を通り抜ける国道42号(熊野街道)の西側に入ったところの全龍寺あたりがその屋敷跡として伝わります。
その山門脇には説明板が置かれています。
戦国時代から近世初頭にかけて、奥熊野地方を支配した堀内氏の平城跡。
周りが五町ばかりあり、四方を水堀で囲った屋敷であったようだが、現在は裏手(西方)と北方の一部にその名残の小川が残るのみである。
堀内氏善は天正19年(1591)、豊臣秀吉から熊野総地の支配権を許され、約六万石を領したが、関ヶ原の合戦で西軍に参加したため敗北した。
堀内氏の勢力と、新宮城下町形成期の支配形態を考えるうえでも貴重な史跡である。
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こちらが、その北方の水堀の名残という小川です。
西方の小川も、小川と呼ぶにも貧相な様相ですが、その地形そのものに名残を感じ付近を歩き回ってきました。
夕暮れ時の新宮です。
市内を通り抜ける国道42号(熊野街道)の西側に入ったところの全龍寺あたりがその屋敷跡として伝わります。
その山門脇には説明板が置かれています。
戦国時代から近世初頭にかけて、奥熊野地方を支配した堀内氏の平城跡。
周りが五町ばかりあり、四方を水堀で囲った屋敷であったようだが、現在は裏手(西方)と北方の一部にその名残の小川が残るのみである。
堀内氏善は天正19年(1591)、豊臣秀吉から熊野総地の支配権を許され、約六万石を領したが、関ヶ原の合戦で西軍に参加したため敗北した。
堀内氏の勢力と、新宮城下町形成期の支配形態を考えるうえでも貴重な史跡である。
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こちらが、その北方の水堀の名残という小川です。
西方の小川も、小川と呼ぶにも貧相な様相ですが、その地形そのものに名残を感じ付近を歩き回ってきました。
夕暮れ時の新宮です。
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