1186杉原城(大阪府) [城印象記]
大阪府豊能郡能勢町杉原の杉原城を紹介します。
より大きな地図で蔓草マップ を表示
京都大阪の境になります。府道732号線の南側の一段高くなったあたりに仏称寺が見えます。ここの境内に車を停めさせていただきました。
ちょっとした工事をされていて声をかけると、どうぞ、とのことでした。車は2,3台停めれそうです。またここは杉原小学校の跡地でもあります。
城の案内板がありました。
杉原城址(すぎはらじょうし)
ここ杉原地区は、能勢町の東の端に位置し、往古より「摂丹」つまり「摂津」と「丹波」の国境にあって、軍事上の要衝の地とされてきた。
「・・・能勢郡吉野村へ越ス峠マデハ、掘越峠ヨリ山尾ニテ吉野村東山尾ヨリ桑田郡加舎村定杭へ見通ス国境ニ有之候事。慶長7年壬寅3月」
と当時の国境について、「犬甘野村由緒書」に見える。
また、杉原村を通過する北西への街道は、国境に添って歌垣山の東山麓を通り吉野へ出て、そこから摂津路へ、丹波路へとするのが本街道であった。戦国乱世において、このような土地に城が築かれるのは当然なことである。
ここ杉原城址は村の中央の高台にあって、鎮守の森として八幡社が祀られているが、その一帯が、まぎれもなく戦国時代の山城の跡である。天保年間の村の古地図に、小字名として「城山」の名をとどめているし、遺構としても顕著に残っている。
八幡社へほぼ登りつめたところに、屈曲した「虎口」(入口)が見られ、そこを過ぎると、広い「郭」跡に出る。こうした郭跡は、西から押し出した尾根上に6ヶ所残っている。城址の最も高い所には、2ヶ所の「堀切り」と「土塁」が築かれ、さらに「竪堀」の施設があるなど、重要な防御点を示唆している。いうまでもなく、尾根続きの敵兵を遮断するためのものである。「本郭」の両袖には、「武者出し」か「武者かくし」を思わせる遺構もあり、あちこちに残る虎口には、「桝形」を思わせる複雑なものも見られる。
もともと杉原村は、慶長7年(1602)ごろまでは、丹波国桑田郡犬甘野村(現亀岡市西別院町犬甘野)であった。犬甘野といえば、口丹波に台頭した長沢一族の本拠地であり、杉原城は、その境目城、あるいは砦ではなかったかと思われるが、高橋成計氏は、丹波の数掛城(現亀岡市本梅町)の出城として、吉野城(現能勢町吉野)・杉原城が築かれたという説である。
築城は、天文~永禄期(1532-1570)の頃と想定されるが、いずれにしても、杉原城は町内の山城の中でも中規模の城郭に入り、遺構としては、氏神の鎮座もあって当初の姿がよく残っている。
平成12年3月 能勢町教育委員会
------------------------------------------------------------
縄張図付です。
ここからお城まで距離があるようにも思われましたが、尾根先にあるお城の直下というような位置になります。
お城へは、お寺を出てすぐの道を右に曲がり、坂を上がります。
坂を登ったあたりに登城道があります。正面の石段です。
八幡社があるため、道が整備されているのです。
山道を進むと虎口にあたります。登り道が折れ曲がり、土塁で桝形が形成されています。これは見事な遺構で、案内板で写真入りで説明がある通りです。
広い郭に出ました。
ひとつ上の郭には八幡社が祀られています。広い郭とその郭、そしてその上の本郭。それらの切岸が際立っています。
本郭です。細長い削平地になっています。尾根先の地形を利用しているのがよくわかります。
途中(全体の奥1/3あたり)が少し高くなっていて、郭として使い分けをしていたのでしょう。最奥は土塁になっています。
本郭の袖を除くと帯郭が見えます。武者かくしと説明される遺構です。
見所かと期待してきた本郭背後の堀切は意外と小さいものでした。
しかし、堀切は確かなものであり、竪堀となって落ちています。こうして、その後ろから、堀切や土塁越しに本郭を眺めても、ああ、山城だなと感じる景色であります。
コンパクトにまとまったお城で、遺構がよく観察できます。山城って、こういうものとお話しするには、いいお城です。簡単に、こんな夏場でも見学できるので、ちょい寄りにもお勧めですね。
最後はお城の全景を狙ったものです。山を収めるのだから、もっと引いた位置でないとダメでしょうか。
尾根先にある山城です。
より大きな地図で蔓草マップ を表示
京都大阪の境になります。府道732号線の南側の一段高くなったあたりに仏称寺が見えます。ここの境内に車を停めさせていただきました。
ちょっとした工事をされていて声をかけると、どうぞ、とのことでした。車は2,3台停めれそうです。またここは杉原小学校の跡地でもあります。
城の案内板がありました。
杉原城址(すぎはらじょうし)
ここ杉原地区は、能勢町の東の端に位置し、往古より「摂丹」つまり「摂津」と「丹波」の国境にあって、軍事上の要衝の地とされてきた。
「・・・能勢郡吉野村へ越ス峠マデハ、掘越峠ヨリ山尾ニテ吉野村東山尾ヨリ桑田郡加舎村定杭へ見通ス国境ニ有之候事。慶長7年壬寅3月」
と当時の国境について、「犬甘野村由緒書」に見える。
また、杉原村を通過する北西への街道は、国境に添って歌垣山の東山麓を通り吉野へ出て、そこから摂津路へ、丹波路へとするのが本街道であった。戦国乱世において、このような土地に城が築かれるのは当然なことである。
ここ杉原城址は村の中央の高台にあって、鎮守の森として八幡社が祀られているが、その一帯が、まぎれもなく戦国時代の山城の跡である。天保年間の村の古地図に、小字名として「城山」の名をとどめているし、遺構としても顕著に残っている。
八幡社へほぼ登りつめたところに、屈曲した「虎口」(入口)が見られ、そこを過ぎると、広い「郭」跡に出る。こうした郭跡は、西から押し出した尾根上に6ヶ所残っている。城址の最も高い所には、2ヶ所の「堀切り」と「土塁」が築かれ、さらに「竪堀」の施設があるなど、重要な防御点を示唆している。いうまでもなく、尾根続きの敵兵を遮断するためのものである。「本郭」の両袖には、「武者出し」か「武者かくし」を思わせる遺構もあり、あちこちに残る虎口には、「桝形」を思わせる複雑なものも見られる。
もともと杉原村は、慶長7年(1602)ごろまでは、丹波国桑田郡犬甘野村(現亀岡市西別院町犬甘野)であった。犬甘野といえば、口丹波に台頭した長沢一族の本拠地であり、杉原城は、その境目城、あるいは砦ではなかったかと思われるが、高橋成計氏は、丹波の数掛城(現亀岡市本梅町)の出城として、吉野城(現能勢町吉野)・杉原城が築かれたという説である。
築城は、天文~永禄期(1532-1570)の頃と想定されるが、いずれにしても、杉原城は町内の山城の中でも中規模の城郭に入り、遺構としては、氏神の鎮座もあって当初の姿がよく残っている。
平成12年3月 能勢町教育委員会
------------------------------------------------------------
縄張図付です。
ここからお城まで距離があるようにも思われましたが、尾根先にあるお城の直下というような位置になります。
お城へは、お寺を出てすぐの道を右に曲がり、坂を上がります。
坂を登ったあたりに登城道があります。正面の石段です。
八幡社があるため、道が整備されているのです。
山道を進むと虎口にあたります。登り道が折れ曲がり、土塁で桝形が形成されています。これは見事な遺構で、案内板で写真入りで説明がある通りです。
広い郭に出ました。
ひとつ上の郭には八幡社が祀られています。広い郭とその郭、そしてその上の本郭。それらの切岸が際立っています。
本郭です。細長い削平地になっています。尾根先の地形を利用しているのがよくわかります。
途中(全体の奥1/3あたり)が少し高くなっていて、郭として使い分けをしていたのでしょう。最奥は土塁になっています。
本郭の袖を除くと帯郭が見えます。武者かくしと説明される遺構です。
見所かと期待してきた本郭背後の堀切は意外と小さいものでした。
しかし、堀切は確かなものであり、竪堀となって落ちています。こうして、その後ろから、堀切や土塁越しに本郭を眺めても、ああ、山城だなと感じる景色であります。
コンパクトにまとまったお城で、遺構がよく観察できます。山城って、こういうものとお話しするには、いいお城です。簡単に、こんな夏場でも見学できるので、ちょい寄りにもお勧めですね。
最後はお城の全景を狙ったものです。山を収めるのだから、もっと引いた位置でないとダメでしょうか。
尾根先にある山城です。
コメント 0