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0476北野砦 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市北野町西山。



集落の外れといった辺りに地蔵堂がある。ちょうど三菱自動車工場の外周。三叉路になった場所に、ちょっとした空き地がある。

三河国二葉松に「字西山辺にして上野城松平内膳の砦なり」という記述があり、ここらがその砦ではないかと言われる。

松平内膳は宗家に弓を引いた松平信定のことであり、上野上村城の城主でもあった。対岡崎城を意識した前進基地でもあったのだろうか。

近くの畑から武具などの破片が出たそうだが、遺構は何もない。

きれいになっているが、あっけないばかりだ。

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0441井ノ口城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市井ノ口町字楼。



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井ノ口稲荷神社がある。ここが台地の突端になり、砦があったという。なるほどな、という地形である。ただし、遺構は何もない。

せっかくの機会なので、ブログ紹介にあたっては再訪して計上するようにしている。通りがかりのようにして行っただけではあるが、案内板が出ているのに気が付いた。以前の画像には写ってないから新しく建てたのだろう。チェックに行った甲斐があった。ちょっとした案内だが、こういうものが出来たのは嬉しい。

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時期 1465年(寛正6年)室町時代
城主 井口左馬助長家・赤白大納言
現状 井ノ口稲荷神社
概要

寛正6年(1465年)当時二派に対立していた三河吉良氏は被官への統率を欠き、丸山中務入道父子・大場二郎左衛門・簗田左京らが額田郡井ノ口にたてこもり、狼藉をはたらいた。これらが井ノ口砦であったと考えられている。

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大昔(弥生時代)は環濠集落だったということで、地図も出ている。興味をひく。

川の外から高台をのぞむ。感じが今もよく残っている。

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0410大友城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市西大友町字天神。



山田柾之さんの「史跡散策愛知の城」によると、「『三河国二葉松』に「西大友の南、字平城にあり。石川三蔵元長、同右衛門章長が居住す。元長は河内国石川郡駒谷の住人石川備前守元章の子孫なり」とある」として、西大友公民館あたりに石川家の広大な屋敷があったという。

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なるほど、そういうことかと了解していたが、愛知県中世城館跡調査報告2(西三河地区)では、石川氏所縁の安受寺を意識し、地籍図などをあげて、このあたりではないかと類推していた。かつては土塁囲みの屋敷が集まっていたようだ。



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東大友町字稲葉の地、しかし、これも推定であってはっきりしない。

いや、どちらの位置も含む広大な屋敷かもしれない。

どちらも住宅地で城の痕跡は感じられなかった。新しい住宅、古い住宅と混ざっていて、古い住宅の広いところでは、昔の名残の土塁がひょっとしたらあるのかもしれないが、歩いた限りでは見られない。

岡崎市の住宅地図を見て調べてみたが、字平城という地名は今は残ってないようだ。

ただ、石川某というこのあたりの権力者がいて勢力を振るっていて、その館城がこのあたりにあったのはまちがいないだろう。

今も、石川さんのお宅は何軒もあった。

(松平氏に仕えた石川康正・石川数正と繋がりがあるのかはよくわからない。河内国から下ってきたことといい、多分、大きくいって一族なのかも知れない。)

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ちなみに大友は、大友皇子に謂れする。壬申の乱で敗れた大友皇子は、自害したといいふらし、物部・村主・長谷部などの諸氏とともにこの地へ逃れた。

その草庵址が西大友町公民館近くの大友天神社だ。

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が、この草庵址についても、安受寺近くの東大友公民館にも丸藪之館碑が建っている。位置の詳細ははっきりしない。

まあ、このあたりに関係するということで話を止めようか。

ついでながら、大友は「おおども」と呼んでいる。昔は普通に「おおども」と言っていたと思うが、新しく住宅の増えたところでもあり、今は「おおとも」と濁らない人が多いような気がする。でも、郵便番号検索で地名を調べてみたら「おおども」となっていた。

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0390羽根西城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市羽根西町2丁目



名鉄バスの市民センター前の停留所がある。そこに稲荷神社がある。そこが羽根西城だ。遺構は特に残ってない。

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大久保党が本拠とした上和田のすぐ隣の地である。大久保党の城があったということであろう。大久保忠世の祖父、大久保忠茂が1524年に築城したと伝えられる。

あたりは高台になっている。そのわずかな高さが、城であったことを物語っているようだ。

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0383永井城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市福岡町字シケ畑。



道の端に碑がある。畑の前と言ってもいい。

「『三河二葉松』によれば、城主は永井村住人の山本小次郎と伝えられる。」とある。

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遺構は何もない。ただ城があった、それだけだ。

ただこの城を訪れで驚くのは、その向かいにあるお墓である。

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なんと、山本勘助之墓とある。あの武田の軍師として活躍する山本勘助!

どうやら、いくつかあるお墓のひとつで、特別なものでもないようだが、しかし、おそらく城主山本小次郎と縁があったということなのだろう。

だだただ、継ぎ接ぎの知識で想像するばかりであるが、わからないからロマンがあり、想像も楽しいというところか。

数年前に訪れた時よりも整備されてキレイになっており、大切にされているのがよくわかる。

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0376土呂陣屋 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市福岡町西市仲。

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福岡小学校の北側の門のあたりに大きな松が見られる。旗本山口氏の陣屋の庭に植えられていた松だそうだ。土呂村をはじめ3千石を領していた。

枝が剪定されたのか、さっぱりしていた。

遺構は何も残ってないが、この由緒ある松がいつまでも健在であって欲しいものだ。

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0363船山城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市岡町字船山。



作岡城の近くにある。というか作岡城とセットでひとつの城だったのかもしれない。はっきりわからない。今は、伝承地としてここに城があったと言われているだけだ。

しかし、この景観はいい。田んぼに浮かぶ島のような地形は、いかにも城があったかというように見える。

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丘の上は、比高10mほどで、削平された状態になっている。これは船山神社が鎮座しているからだろう。

立派な神社ではあるが、昭和に合祀して建てられたものらしい。

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広場風になっているが、その時の醸成によるものだろう。何かないかと周囲の藪の中に分け入ってみたが、遺構らしきものは見つからなかった。

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0345岩津城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市岩津町東山。



岩津の東にある小山。標高74m。丸くこんもりと茂っている。岩津天満宮の西隣になる。市内にあってよく中世山城の遺構を残している城だ。

以前は高速を渡る橋の向かい角に案内板があった。一方、私有地につき通行ご遠慮下さい、と看板が出てたりして見学者の混乱を招いていたようだ。この案内板がなくなり、西からの登城口に設置し直されていた。

周囲は住宅地であり、必ずしも見学者に好意を持っているわけではない。不用意な立入や駐車には気を付け、マナーは守りたい。

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細くのびる竹藪の道を入り左に折れると大きな堀が見えてくる。そして土塁。馬出のような曲輪が確認できる。、

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大ぶりな遺構だ。再び大きな堀に土橋。この土橋で主郭に至る。このあたりの様子がこの城の一番の見所であろう。

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主郭は広い。円形に広がり周囲に土塁が認められる。

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その土塁のひとつに碑が建つ。

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以前はもっと鬱蒼としていたイメージがあるのだが、幾分すっきりしたのかな。看板がキレイになっていたせいか、そんなふうに感じられた。

しかし、主郭周辺の帯曲輪に入り込むと、竹藪はまだまだ厳しい。

地形は単純なようで、なかなか変化に富んでいる。細かく工夫されて堀・曲輪が配置されたのだろう。

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時計回りに丹念に見てまわる。それが愉しい。なかなかの堅城だ。

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この岩津城は中根大膳だったものを松平2代泰親・3代信光が奪い、信光雄飛の礎になった城だ。松平の山中の一領主から平野部に進出、この後、安祥城奪取、48人もいたという子どもを三河各地に派遣する。

岩津の山から未来を夢見ていたことだろう。

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0341發知城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市大平町。



大平城・大平古城・百雉城あるいは大平才勝城。

本来はここより北東のレッドバロンあたりが城跡と言われています。どういう縁か、中天北の民家の庭に石碑がありました。が、近年ここへ石碑が移され、整備されて、ちょっとした憩いの場になっています。こうして歴史が偲べるのはいいですね。

ジャンボエンチョー岡崎店南側の交差点近くです。のむら接骨院前です。

碑文には、百雉城と記され、百丈の広さを有する大きな城館だったことがわかります。多少のことがあれ、全て城域だったことでしょう。ただ今は何も残ってはいません。

發知(ほっち)氏は、もともとは柴田氏で、藤原秀郷の末裔にあたり、室町時代初期に城館を定めました。足利義詮(1330-67)の時代だそうです。後裔は松平清康に使え、弓の名手として知られたそうです。發知とは、その尊称です。

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0297生田城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市美合町生田屋敷。


より大きな地図で 岡崎の城 を表示

田んぼの真ん中にぽつんと碑が建っている。立派な碑だ。

「生田城址」とある。「しょうだ」と読む。

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小さな説明の石板もあって、そこにはこう記されている。

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生田城

明和年間生田四郎重勝が徳川家康公の姫御前が豊前の国中津藩に御輿入れになった際に付添武士として栄任され時の庄屋本間幾右ヱ門重勝に其の後始末を一任され廃城となった。


明和年間といえば、1764~1772年、江戸時代中頃のことであろう。家康公はとっくに亡くなっているし、姫御前というのは奥平氏に嫁いだ長女亀姫のことであろうか。明和年間には豊前中津藩は奥平氏が藩主だったが、家康公存命の頃はまだ豊前中津とは関係もない。意味不明の文章である。

城址碑の裏には「昭和五十五年五月吉日本間淳治建之」とある。きっと本間重勝の子孫の方が建てたのだろう。何かしらの根拠があっての文章、それが省略が多くて意味がとれない文章になっているものと思われる。

昭和初期には、高さ3m幅5m長さ30mほどの土塁とその両側に堀があっという。

今わかるのはその程度のことだ。何かいわれのある土地で、いわれのある方が代々庄屋として土地を引き継いできたのだろう。その最期の耕地整理で、今の風景になっていると理解したい。

なお、この地は、小豆坂の合戦の戦場となったひとつとも言われている。境の重要拠点でもあったわけだ。今は県道48号線、岡崎刈谷線の終点近くになる。

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