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0840青野城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市上青野町稲荷西。


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美矢井橋を渡って岡崎に入ってくると右側に来迎院がある。そのあたりが青野城があったところだ。来迎院は集落の外れの様な位置。

寺は草木がのびて少し荒れた感じさえした。

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城らしい遺構は何もない。

当時はどんな具合だったのだろう。もう寺の裏からは矢作川の土手が見える。

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松平5代長親の4男義春が創建した。青野松平氏の始まりとなる。その後、吉良氏討伐後、東条松平氏となるが、後嗣なく、家康4男忠吉が相続するが、忠吉も嗣子なく、廃絶となった。わずか4代で絶えた。

来迎院を入ってすぐ左に義春の墓がある。説明板があるので、それとわかるが、草生してしまっているのは残念だ。

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0827合歓木城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市合歓木町下郷間。


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神明社があります。この神明社の東側辺りに合歓木城がありました。

神明社の境内はきれいにされていました。公民館も隣接されており、集落の中心であることがうかがわれます。

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築城年ははっきりしていませんが、6代信忠の次男、松平信孝の城で、信孝が三木城へ入る前のことになります。三木松平の祖となる松平信孝はやがては宗家を脅かすやっかいな存在になりますが、田んぼのつづく平地を見ていると、ここなら地力をたくわえれそうなのかな、と想像したりします。

神社の北東に碑があります。城主末裔の方の功績をたたえるものですが、城のなにかを感じさせるような土の盛り上がりでした。

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0796岡城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市岡町西側。


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岡町西側の変形交差点から近い。少しわかりにくいかもしれないが、小道を奥に入っていく。

岡城の説明板がでている。

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岡崎観光文化百選

 岡城址

 池野大学によって築かれた城で、西三河を平定した後、家康は河合勘解由左衛門にここを守らせました。
 三河名勝志の「御殿址」の項に次のように書かれています。「岡村西より二町余り過ぎて、一の木戸門あり。小径数百歩、両側皆竹林なり。大手門の跡とおぼしき所、左右に土手、空堀あり。これより内方一町ばかり閉衍にして樹竹なく、草野の如し。西より南へ廻り、土手、空堀あり。・・・・・・云々」。

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もう少し足を進めると、碑、土塁が見えてくる。

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立派な土塁だ。

しかし、左右に土手、空堀ありと云うが、片方にしかない。

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あたりは竹林になっている。あたりは、かつてと思うとずいぶんすっきりした。が、この季節、薮蚊は避けられない。

あまり長居はしたくないところ。といっても見るものは少ない。

この土塁と空堀がいい。だんだんこういうものが貴重になってくる。わずかな遺構だが、大切にして欲しい。

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0697西阿知和城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市西阿知和町中根。


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近くまで行くのは判りやすいが、主要道からは奥に入っているので少しわかりにくいか。大照院というお寺がある。そこが西阿知和城だ。

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松平3代信光が岩津城主になった1421(応永28)年に弟信季が阿知和城主となった。永禄年間には阿知波右衛門大夫と名乗り、以後代々の居城となったそうだ。

10年くらい昔にはこんな説明板が出ていて、お城と知ることができた。が、今は何もない。

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階段を登ると左手に曲がり本堂がある。いつもは人気はないのだが、たまたま何か法要をされているようである。現役のお寺なんだ。

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これという城の遺構はないようだが、お寺の横から後ろは畑などがあり、かつての曲輪を思わせる。その周囲には土塁を思わせる高まりもある。

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全体が比高10m程度の丘であり、いかにも城址という雰囲気が感じられ楽しい。また、説明板などを建てて欲しいものだ。

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0661本郷城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市東本郷町北浦。


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東本郷の信号の位置から南東150mほどにあるのだが、道は説明し辛い。路地を間違えなければ、生誕碑と説明板が出ているので、たどりつけると思う。

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城とはいうものの遺構は何もない。明治期には土塁も残っていたというから、何かしらあったことには違いない。もっとも、城というより、植村新六郎栄安生誕の地としての説明だ。

植村栄安は、清康・広忠の二代にわたって主君の仇討をした。松平氏も二代にわたり近臣に刺されるという不運が続いたが、それをまたすぐ近くにいて、すぐ討ち取るという機会があったということだけでも驚く。その奇跡的な偉業を植村栄安がなした。

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この石碑がその生誕碑だ。かっこいい碑ではあるが、文字は読み切れない。

植村栄安は織田との戦いで天文21(1552)年に亡くなるが、子孫は2万5千石の大名である高取藩藩主となった。

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0642坂戸城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市島坂町。


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河野町西の交差点から少し東に入ったところです。酒人神社があり、そこが坂戸城です。通りからではわかりにくいですが、すぐ気付くと思います。

酒人神社の案内板があります。

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酒人神社

食物の神様と酒人親王が祀られています。酒人親王は、6世紀ごろ中国から鍛冶や織物、大工、酒づくりの技術を持って日本に帰化した阿知使王の子孫で、朝廷のの支配力が全国に及ぶようになった時期に、この地に移り住み、我が国で初めて清酒を醸造したと言われています。当地が、今も「坂人」と呼ばれているのも、このことに由来していると思われます。

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日本最初の清酒醸造の地と説明に驚きますが、鳥居の横には立派な「美酒發祥地」の碑もあります。

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小さな祠が祀られていますが、ごくありふれた神社です。で、そして城であったということですが、遺構もなければ、名残らしいものもありません。

せめて説明板があるなら、ひと言、城があったことを書き添えておいてほしいものですね。

詳細ははっきりしていませんが、長坂氏の居城として築かれ、後には、平岩親吉なども関与したそうです。

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0616供御城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市久後崎町郷西。


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久後崎に熊野神社があります。ここが供御城のあった場所だそうです。

詳細はわかりませんが、「三河国二葉松」に「供御村古城、宮内助内」とあります。館城のようなものがあったのでしょうか。

無量寺・公民館・熊野神社と並んだあたりは少し高台ですから、立地としてもふさわしいものがあったのでしょう。

また岡崎城からは菅生川を隔てた南の位置にあります。

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0609勝鬘寺砦 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市針崎町朱印地。


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県道43号岡崎碧南線沿いにある。岡崎小学校東の信号のあるところ。

高台の少し坂を登ったところに勝鬘寺がある。大きなお寺だ。角には参詣者用の駐車場もある。

ここが三河三か寺のひとつと言われた勝鬘寺である。

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永禄6(1563)年から翌年にかけておきた三河一向一揆の拠点のひとつだった。大きな石碑には三河一向一揆戦陣跡とある。蜂屋半之丞、渡邉高綱らが立てこもった。

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占部の出身で、門徒宗として戦った渡邉高綱は、和田の戦いで内藤正成の矢に当たり負傷して亡くなった。

その渡邉高綱の墓が寺にある。高綱は、後に尾張藩家老になる渡邉守綱の父にあたる人だ。

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0604土呂城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市福岡町御堂山。


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岡崎駅から福岡に至るこの道はちょくちょく通る。通るたびに、このあたりは土呂城があったと思う。そんな場所なのだが、いつの間にかコンビニだったところは弁当屋さんに変わってしまった。

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これは2009年12月の画像である。まだコンビニがあった時代だ。それが、今回取材して驚いた。なくなっているのである。

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そう案内の棒杭。けっこう新しそうだったのにどうしたのだろう。残念だ。

「土呂城址」
「御堂山が本丸の址で、これより北二丁(約二二〇メートル)の御坊山が二の丸の址と伝えられている。(栗田古文書より)」
「永禄七年(一五六四)の一向一揆のあと、家康の命により石川数正により建てられ、以後城下町として発展する。築城並びに廃城年月日は不詳。」

昔の画像を見るとこんな説明が記されていた。

高台になった御堂山は今も残っているが、どこか寂しげだ。

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城遺構は何もないが、この高さ、この広さは、まずまずのものだろうか。

御堂山は蓮如さんゆかりの地で、その隅には、遺骨の一部を譲り受けたという墓が建っている。

変わりゆくなかで、これだけは残りそうだ。

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0598井内城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市井内町久世。



字久世に久世三四郎広宣または坂部三十郎広勝の城があったと伝わる。

地籍図で調べると、この久世には小規模な土塁囲みの屋敷が集合しており、それらしい場所は特定できないそうだ。

井内八幡宮は古くは725(神亀2)年に玉柱屋姫命を祀ったのがはじまりとされ、1353(文和元)年に八幡大神を合祀した。

古くから、ここらが、ここ井内の中心地だった。

少し高台となった様子は城館があった地にふさわしいか。あたりはすっすり住宅地となり、遺構のかけらもないが、やはり城館があったのだろう。

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