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岡崎の城をめぐる ブログトップ
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0983西大平陣屋 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市大平町西上野。


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かの大岡裁きで有名な大岡忠相(ただすけ)が開設した陣屋である。高麗門と白壁が作られ、小公園になっている。

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大岡越前守が有名で、整備もされているので、よく知人を案内するが、門は西を向いているので、朝は逆光になって撮りづらい。お昼以降がお勧め。

よく見ると少し古い写真には看板がない。

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調べてみると、2013(平成25)年4月7日の家康行列が行われた日に、茅ヶ崎市の方々とともに看板設置式を行って掛けられたそうだ。茅ヶ崎市は元々の大岡忠相の知行地、その縁で岡崎市と茅ヶ崎市はゆかりの町として提携している。

茅ヶ崎市では大岡越前祭が行われている。そのように敬愛されていることは嬉しい限りだ。

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しかし、史跡の整備としては今いち感がぬぐえない。もっとも、1万石の譜代大名に昇格したとはいえ、江戸に常駐する定府大名で、この陣屋には10数名が詰めるだけのものであったらしい。だから、その所縁を偲ぶ、そんな場所と思った方がいい。

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稲荷社がある。現社殿は2002(平成14)年に再築されたとあったが、確か以前からここには稲荷社があった。大岡家所縁のものである。

だから、単なる小公園ではなく、やはり由緒ある所縁の地。

大切にされた思いがここにはある。

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0976多門氏城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市大平町天神前。


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大平八幡神社がある。ここに多門(おおかど)越中守の居城があったと言われる。別名、大平城、大平村古城、大平西城。

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敷地は広い。参道を行くとゆるやかな坂になっており、本殿あたりは高台になっている。居城を構えるのにふさわしい気がする。

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左手は竹藪であり、やはり段差はあった。

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土塁・堀が残っていたらしいが、今は遺構はない。

城主、多門伝十郎重信は本多忠勝の寄騎衆であった。が、三方ヶ原の戦いで戦死。子供の多門平七郎重信は大坂夏の陣後、400石を領した。

しかし、その頃には三河にはいなかったことだろう。

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八幡神社の創建は不明ながら、安永6年にこの地に遷座した記録があるという。

廃城となったこの地が、ちょっとした特別な地として残っていたのだろう。

今はただ静かな境内だった。

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0951小針城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市小針町。


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ここに「阿部城内跡」の石碑がある。

ただこの石碑は、小針から形のよい石が出たので、石碑を作って建てたという。戦前の話。そして道路の拡張があり、今の場所に落ち着いた、それが昭和18年のことだそうだ。

東側から来れば集落の入口ともいうべき場所で、城の門前になるかもしれない。

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室町中期、阿部忠正が小針城を築いた。

詳細についてはよくわからない。が、小針には城を思わせる地名が残っている。城跡・池城・屋下・本丸・馬々西・的場、想像をかき立てる。

私としては、県道230号線の圓慶寺付近が、集落の中心でもあり、周囲から見れば高台のようで、館城があったように感じる。

城跡の地名があり、以前は土塁が残っていた。高さが4~5m、上は平地で60平方mほどの面積で、櫓台のような土塊だったらしい。今は残っておらず、私も目にしたことはない。残念だ。

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南には本丸らしからぬ景色ではあるが、本丸という地名がある。

北には神明社があり、ここも城があったと伝えられる。

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神社裏手には堀跡ともとれそうな地面の段差がある。

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神社近辺も、少し前とではかなり変わってしまった。想像しにくいが、しかし、西の道路など、高低差を考えると北から西へと空堀が回っていたのかなと想像できる。

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そんなこんなで、小針集落には阿部氏累代のかなり大きな館城があったのではと考えられる。

そして神明社東の田んぼに、阿部忠正の墓と伝わる宝篋印塔があった。

今は舳越町の願照寺に移動した。

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ここには阿部家4代の墓がある。

初代 忠正 小針城を築く
2代 正重 松平忠親・長親に仕える
3代 正俊
4代 正宣 松平清康、広忠に仕える
5代 正勝 家康に従い今川の人質にも行く(2歳年長)

小さな墓が2代から5代のものだ。

しかし、普通、初代の墓は小さなもので、功を成し遂げた子孫の墓が功績以上に立派な墓になっているのが、よくある光景。それを考えると、5代正勝こそ、近世大名の始まりであり、その後三河を離れていくわけだから、一番左の小さなお墓が忠正で、順に並び、右の大きなものは5代正勝と思われるが、いかがなものだろうか。

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その後、阿部10代正邦は備後福山藩10万石の大名になる。福山城では阿部氏10代161年の藩主時代が明治維新まで続く。

今、岡崎市と広島県福山市が姉妹都市になっているのも、そんな関係が影響しているのだろう。

有名な日米和親条約を締結した阿部正弘は、この小針城主阿部忠正の子孫だ。

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0933影山城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市上六名町。


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先に紹介した六名城のすぐ北になる。あたりは住宅地として区画され、遺構は残っていない。が、道路沿いのそのあたりは高台になっており、雰囲気が感じられる。

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成瀬氏の城。5代国平が居城したそうだが、詳細はわかっていない。

公卿二条良基二男の末裔と称す成瀬氏。基久が足助荘成瀬郷に土着して成瀬を名乗ることになるが、2代基直が松平初代親氏に仕えるという、松平家中でも古参の一族のひとつである。松平氏の進展に伴い、居城も変わっていったのだろう。

やがては8代正義が家康に従い、正成が江戸幕府開設後、尾張藩附家老犬山城主となる。

そんな成瀬家の中世城館があった。

一本の高い古木があり離れても位置がよくわかる。横の道を進み振り返ると、高台の突端さが感じれて、面白かった。

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0922六名城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市六名町。


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真宮遺跡、熊野公園あたりに城があったと言われている。あたりは住宅街。遺構はないのだけれど、少し高く土盛りしたところがあって、ここかなと想像をかき立てる。

熊野公園の隅には、山伏塚があって、少し高くなった様が気にかかった。

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中心にはふるさとの名木に指定された山伏のカキが植わっている。ヤマガキという品種で城館があった当時からのものらしい。

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城主には、鳥居忠広・成瀬藤蔵・蜂谷半之丞・安藤帯刀らの名があるというが、はっきりしないらしい。

三河武士では少しは知られた人たちではあるが、どんな歴史があったというのだろう。

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その少し南には真宮神社がある。第13代成務天王の御世に創建されたという神社であるが、このあたりに蜂谷半之丞貞次の屋敷跡があったらしい、という資料も目にした。

が、真宮神社も装いがあたらしく、それらしいものは何もない。

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0913豊阿弥屋敷 [岡崎の城をめぐる]

「岡崎の城をめぐる」も意外と人気あるカテゴリーで、こんなマイナーな情報が役に立つだろうかと不安になるのだが、いつもアクセス数に励まされる。

ふと気が付いてみると、リンクをはったグーグルマップの「岡崎の城」は表示回数が11,000回を超えた。

なんとか頑張って172ヶ所の案内を書き、全部赤いピンに置き換えたいと思っている。これからも、よろしくお願い致します。

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岡崎市宇頭町。


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安城市との市境付近。宇頭観音がある。その北側。名鉄本線を越えたあたりに、室町時代の末頃、豊阿弥という長者屋敷があったらしい。

今は福山通運の建物が建っている。

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井戸跡が残っていたらしい。

見た感じそれらしきものは無さそうだ。もっとも、今は福山通運さんの敷地内のことではあるし確かめようもない。

このあたりは碧海台地の端で比較的高いところだろう。昔は水がひき難かったはずだ。そんな場所で、水が出れば、それはやっぱり長者さんになってしまうだろうなと勝手な妄想をする。

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会社の敷地ということで、まわりの田んぼよりは高くなっている。これは、会社をおいた時の造成によるものだろう。

しかし、会社敷地が屋敷で、水路が堀と思うと何だか楽しい。

水路もまったくデタラメにひくのではなく、けっこう昔の堀跡を利用しているものも多いのだが、ここはどうだろう。

あたりを歩いてみた。

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0887渥美館 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市宇頭南町。


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宇頭には松平清康(家康祖父)以来の家臣である渥美弥三郎の居館があったという。時期もあいまいながら、場所もはっきりとしたことはわかっていないようだ。ただ、人伝えに宇頭神明社の東にあったと言われている。

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参道の長い、小さいながらにも立派な神社である。

この東にあるのが宇頭公園である。公園として整備されているが、この盛り上がりなど、人工的な部分もあるが、このあたりが微高地になっている。

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更にその東に宅地があり、岡崎西部給食センターや変電所がある。このあたりが渥美館ではないか、としているものもあった。

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更に東の田んぼから見上げるとここも台地状に高くなっていることには違いないようだ。

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宅地開発や変電所などでこのあたりの面影は一変してしまった。しかし、それでも元からの地形は多少はあるだろう。

宇頭公園東の道路下は崖になっていた。

そんなことを考えると宇頭公園の西側の少し高くなったあたり、宇頭神明社の東付近がやはり一番妥当に思えた。

わずかな土地の起伏を確かめながら散策するのも楽しいものだ。

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0875中島古屋敷 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市中島町後屋敷。


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市川豊後守重光の屋敷があったという。中世の居館というべきものだろうか。今は何もない。遺構はおろか、その雰囲気を感じ取るのも難しい。

それでも中島町後屋敷にあったという。たったそれだけであるが、それがわかることが素晴らしい。場所は、今の後屋敷教会があるあたりらしい。

市川重光は市川氏13代目。祖先は甲斐国青島荘市川郷上野村からここ三河に移住し、市川を名乗ったそうだ。古屋敷の築城年なども不明だが、この市川氏はその後、どうなったのだろう。

古屋敷の後になるのだろうか、長安寺というお寺だった場所でもある。ここへ、板倉勝重が若い頃出家していた。板倉勝重はその後栄達して名を遺すが、その関係もあって記録が残ったのであろうか。

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0872中島城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市中島町後屋敷。


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六ッ美村史には「大字中島字巴城にあり,目下田畑となりて其の形跡更になし」と記述があるそうだ。それがこのあたり。田んぼがあり、その奥の屋敷あたりは微高地になっている。遺構はないが、想像たくましく、眺めてみる。

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由良平八郎の築城で、板倉重定が攻め取った。

板倉重定が三河板倉氏の系譜にどう係るのかよくわからない。同族でもないのだろうか。

三河の板倉氏は頼重が始まりで、頼重-好重-勝重とつながる。勝重は江戸町奉行や京都所司代を務めた人。子孫は備中松山藩主になる。

三河板倉氏は深溝松平氏に仕え、吉良氏との戦いではともに出陣。この中島城を攻落させたりするが、松平好景、板倉好重は、善明堤の戦いで敗死した。

「板倉八右衛門源好重戦死地」と書かれたお墓の様な碑が近くにある。

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0860桑子城 [岡崎の城をめぐる]

岡崎市大和町沓市場。


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妙源寺南西あたりが桑子城という。と言っても何も遺構は残ってない。南の境は少し土が盛られているようだが、お墓を囲うものか、寺の境界として後に作られたものだろう。ひっとしたら土塁の痕跡かと思うのは妄想の域を出ない。

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親鸞が三河に立ち寄った時に創建されたお寺で、真宗のお寺としてはこの地方でも最も古い部類に入る。

太子像を安置した柳堂は、15世紀前半に建立されたものと推定され国の重要文化財に指定されている。

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ここでは、三河一向一揆の時には家康方に味方し、家康が妙源寺に難を避けたと言われている。その縁で、明眼寺から「源」の一字を賜り今の妙源寺となったそうだ。

桑子城は安藤氏歴代の居城で、妙源寺には安藤家当主のお墓が並ぶ。

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安藤家は紀州徳川家の付家老や紀州田辺藩主(こちらが嫡流)にもなった家なので、お墓もなかなかのものだ。これだけ大きい墓石で一族の墓が並ぶのは壮観である。

ただ整備されておらず、お墓の保全状態も心配であるし、何よりも案内がないので、誰のものかよくわからない。

中央にある、この右から2番目の立派なお墓が、どうやら安藤直次のものらしい。

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他にも、本多忠豊・本多忠高の墓がある。本多平八郎忠勝の祖父と父だ。

本多家と妙源寺のつながりはよくわからない。妙源寺が真宗のお寺としては力があったのだろうか、と考えたりする。

または安城合戦で亡くなった二人を偲び、安祥に近いこの地に弔ったのか。そういえば、安祥城にも墓碑はあるのだが。

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また十六神将にも数えられる高木清秀の墓もある。

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こちらは平岩親吉墓。尾張犬山藩主となったが嗣子がなく断絶した。

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長坂信政墓。槍働きの武勇で名を馳せ、血槍九郎の異名で知られる。

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三河武士の名だたる武将のお墓がこんなにもあるのに、たいした案内はなく、半ば放置に近い状態になっているのは残念な気がした。

(こちらは妙源寺本堂。)

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