1377猿ヶ城(愛知県) [城印象記]
愛知県豊田市(旧旭町)日下部町柿ノ入の猿ヶ城(日下部城)を紹介します。
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県道490号で弘法杉の地点を目指します。この道がけっこう隘路な峠道でした。うっすらと雪も積もっていたので緊張しましたが、でも宅配便のトラックとすれ違ったりしたので、それなりに主要道ではあります。
登城口です。東海自然歩道と交差した峠でもあり、看板が多いですね。
千人塚の説明板があります。
弘法杉の向かい、画像の左上に写っているのは、下にある公衆トイレです。
千人塚
武田信玄が、猿が城を攻めた時、この盆地一帯が戦場となりました。戦場の片端に討死した多くの諸将を葬った塚があり、これを「千人塚」と呼んでいます。
愛知県
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ただ肝心の千人塚がわかりませんでした。
お地蔵さんがあり、その近くには弘法杉があります。樹高25m、樹齢200年以上と説明がありました。巨樹・古木ではありますが、まだまだですかね、鑑賞に値する名木になるのは。
ここから南へ、東海自然歩道に添って歩きます。猿ヶ城までは、500m15分です。
東海自然歩道ですから、道は整備されています。猿ヶ城があるピークには高圧電線の鉄塔が建っており、いい目印にもなります。
猿ヶ城まであと100mの地点です。
少し平場になっており、休憩所にもなっています。この平場は、城の出曲輪だったのかもしれません。
あと少し、と言いながらもけっこうな階段です。ま、山城めぐりに、こんな階段はまれです。ここは、ハイキングと思って楽しみましょう。
主郭手前です。階段の踊り場になっているこの手前が腰曲輪です。
切岸の加減などはわかりにくいですが、左側などは、鉄塔の建つ主郭をめぐるように削平地が続くようです。
ピークに到着です。ここが主郭になります。
主郭は小さな削平地だったことだろうと推測されます。端っこに案内があります。
(「猿が城跡」と表記されています。)
遺構はないですが眺望はいいですね。北方面が開けています。
そのまま通り過ぎるように進むと、奥は細長い曲輪のようでした。尾根に堀切でもあって欲しいところですが、見当たりません。全体的に、自然地形っぽいようでもあり、東海自然歩道により平らに見えるのかな、とも思いました。
これは奥まで進み振返った写真です。
そこに、主郭のすぐ下に説明板があります。
紹介が最後になってしまいましたが、記します。
猿が城跡
猿が城は日下部(松井)佐渡守の居城と伝えられ、典型的な山城で室町時代に築城されました。本城のあった駒山から申(さる)の方向(南西)にあたるため、猿が城の名が付けられたといわれています。
元亀2年(1571年)武田信玄の西三河進攻で落城しました。城跡は送電線の鉄塔の付近です。
環境庁・愛知県
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ハイキングで楽しめる猿ヶ城でした。
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県道490号で弘法杉の地点を目指します。この道がけっこう隘路な峠道でした。うっすらと雪も積もっていたので緊張しましたが、でも宅配便のトラックとすれ違ったりしたので、それなりに主要道ではあります。
登城口です。東海自然歩道と交差した峠でもあり、看板が多いですね。
千人塚の説明板があります。
弘法杉の向かい、画像の左上に写っているのは、下にある公衆トイレです。
千人塚
武田信玄が、猿が城を攻めた時、この盆地一帯が戦場となりました。戦場の片端に討死した多くの諸将を葬った塚があり、これを「千人塚」と呼んでいます。
愛知県
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ただ肝心の千人塚がわかりませんでした。
お地蔵さんがあり、その近くには弘法杉があります。樹高25m、樹齢200年以上と説明がありました。巨樹・古木ではありますが、まだまだですかね、鑑賞に値する名木になるのは。
ここから南へ、東海自然歩道に添って歩きます。猿ヶ城までは、500m15分です。
東海自然歩道ですから、道は整備されています。猿ヶ城があるピークには高圧電線の鉄塔が建っており、いい目印にもなります。
猿ヶ城まであと100mの地点です。
少し平場になっており、休憩所にもなっています。この平場は、城の出曲輪だったのかもしれません。
あと少し、と言いながらもけっこうな階段です。ま、山城めぐりに、こんな階段はまれです。ここは、ハイキングと思って楽しみましょう。
主郭手前です。階段の踊り場になっているこの手前が腰曲輪です。
切岸の加減などはわかりにくいですが、左側などは、鉄塔の建つ主郭をめぐるように削平地が続くようです。
ピークに到着です。ここが主郭になります。
主郭は小さな削平地だったことだろうと推測されます。端っこに案内があります。
(「猿が城跡」と表記されています。)
遺構はないですが眺望はいいですね。北方面が開けています。
そのまま通り過ぎるように進むと、奥は細長い曲輪のようでした。尾根に堀切でもあって欲しいところですが、見当たりません。全体的に、自然地形っぽいようでもあり、東海自然歩道により平らに見えるのかな、とも思いました。
これは奥まで進み振返った写真です。
そこに、主郭のすぐ下に説明板があります。
紹介が最後になってしまいましたが、記します。
猿が城跡
猿が城は日下部(松井)佐渡守の居城と伝えられ、典型的な山城で室町時代に築城されました。本城のあった駒山から申(さる)の方向(南西)にあたるため、猿が城の名が付けられたといわれています。
元亀2年(1571年)武田信玄の西三河進攻で落城しました。城跡は送電線の鉄塔の付近です。
環境庁・愛知県
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ハイキングで楽しめる猿ヶ城でした。
1376加塩城(愛知県) [城印象記]
愛知県豊田市(旧旭町)加塩町月ヶ窪の加塩城を紹介します。
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頂上に加塩城は位置します。なので、目指す場所はわかりやすいのですが、どこから城へ向かうのか、登城口が悩ましい問題です。林道の大洞線入口から向うことにします。
大洞線にはうっすら雪が積もり、ダート道で、凍り付いています。車輛は進入禁止です。
この入口のすぐ左の登山道を選択しました。
これは尾根道を進み、ピークを越えながら城に迫るルートになります。一気に高度を上げるので息があがります。まずひとつのピークです。
当然のことながら、全く城遺構はありません。
道は特にありませんが、歩きやすいです。ただ、アップダウンがかなりあります。もうひとつピークを越えて、いよいよ主郭に迫ろうかという場所に凹みがありました。
尾根道にしては不自然な凹みです。私は堀切と見ましたが、いかがでしょうか。画像では判定し辛いでしょうが。
ちょっとした平らな尾根を進むと急に坂になります。
そこを登ったところが主郭でした。
主郭はかなり広い削平地です。
ほぼ円形状の主郭で、土塁や切岸などお城的な遺構は見当たりません。
眺望は良さそうですが、現在は木々に囲まれ、見通しはききません。
その奥の方に風神を祀った碑がありました。
北西尾根へ足を伸ばします。一段と低い所に出曲輪の様に削平地があります。
こんな具合で、それらしい雰囲気はあるものの、およそはっきりした城遺構はみられません。しかし。北尾根には堀切があるというので、北尾根経由で下山します。
小さな尾根があると注意して見ているからか、見た瞬間、あっと思いました。
堀切です。
横ななめ下あたりから見た堀切です。わずかなものなのでわかり難いと思います。
それにしても、せっかくの中世遺構に木を入れてしまうとは、と嘆かわしい気分です。なぜこんなことをするのですかね。
その尾根を下って林道に降りました。その林道からの景色です。
林道は後世のものですが、山のラインなど、山城らしい景色でしょうか。
あまり城らしさがなかった加塩城ですが、探索の城めぐりも楽しいものです。
山の中でどうなるかと思いましたが、終わってみれば何のことはありません。帰りは林道をゆっくり下ってきました。ただ途中には、路肩の崩れているところもあります。歩く分には支障はありませんが、やっぱり車両は無理です。
ゆっくり山歩きを楽しんでください。
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頂上に加塩城は位置します。なので、目指す場所はわかりやすいのですが、どこから城へ向かうのか、登城口が悩ましい問題です。林道の大洞線入口から向うことにします。
大洞線にはうっすら雪が積もり、ダート道で、凍り付いています。車輛は進入禁止です。
この入口のすぐ左の登山道を選択しました。
これは尾根道を進み、ピークを越えながら城に迫るルートになります。一気に高度を上げるので息があがります。まずひとつのピークです。
当然のことながら、全く城遺構はありません。
道は特にありませんが、歩きやすいです。ただ、アップダウンがかなりあります。もうひとつピークを越えて、いよいよ主郭に迫ろうかという場所に凹みがありました。
尾根道にしては不自然な凹みです。私は堀切と見ましたが、いかがでしょうか。画像では判定し辛いでしょうが。
ちょっとした平らな尾根を進むと急に坂になります。
そこを登ったところが主郭でした。
主郭はかなり広い削平地です。
ほぼ円形状の主郭で、土塁や切岸などお城的な遺構は見当たりません。
眺望は良さそうですが、現在は木々に囲まれ、見通しはききません。
その奥の方に風神を祀った碑がありました。
北西尾根へ足を伸ばします。一段と低い所に出曲輪の様に削平地があります。
こんな具合で、それらしい雰囲気はあるものの、およそはっきりした城遺構はみられません。しかし。北尾根には堀切があるというので、北尾根経由で下山します。
小さな尾根があると注意して見ているからか、見た瞬間、あっと思いました。
堀切です。
横ななめ下あたりから見た堀切です。わずかなものなのでわかり難いと思います。
それにしても、せっかくの中世遺構に木を入れてしまうとは、と嘆かわしい気分です。なぜこんなことをするのですかね。
その尾根を下って林道に降りました。その林道からの景色です。
林道は後世のものですが、山のラインなど、山城らしい景色でしょうか。
あまり城らしさがなかった加塩城ですが、探索の城めぐりも楽しいものです。
山の中でどうなるかと思いましたが、終わってみれば何のことはありません。帰りは林道をゆっくり下ってきました。ただ途中には、路肩の崩れているところもあります。歩く分には支障はありませんが、やっぱり車両は無理です。
ゆっくり山歩きを楽しんでください。
1374茶臼山城(愛知県) [城印象記]
愛知県豊田市(旧旭町)東萩平町の茶臼山城を紹介します。
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笹戸カントリークラブの近くになります。ちょうどコースの横を通っている道のカーブミラーのあるここから山に入りました。
見失いそうな道ですが、小道があります。
途中で右に折れて尾根を登ります。
案内もなく、道という程もない山の中を歩きます。
とにかく比高は70mほどですから、高いところを目指していけば何とかなるのではないでしょうか。
尾根先の平らな所にでました。
南北にのびる曲輪です。その北から南へと進みます。あまり削平感はありません。中央に巨石があり、城として何か防御に利用したことだろうと思われます。
その向こうに小さいですが堀切が見えました。最初見た時は、感動したのですが、こうして写真で見ていると埋もれているのか堀が甘いですね。
それでも山城らしさを感じる景色です。
その先は主郭です。向かって右側に腰曲輪がのびていました。
主郭に上がります。ここにも巨石があります。
主郭は東西にのびます。あまり削平感はありませんが、ピークにこれだけの平らな土地があるのは、お城として利用された証しでしょう。
その奥は切岸としては甘いですが、段曲輪になっていました。
その先には、よく観察すると、竪堀のような遺構も見られました。
文献に記録が見られず、城として存在を危ぶむ声もあるようですが、私としては充分お城だと感じました。
腰曲輪があって、主郭が浮かび上がったような景色は、お城らしく感じさせてくれます。
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笹戸カントリークラブの近くになります。ちょうどコースの横を通っている道のカーブミラーのあるここから山に入りました。
見失いそうな道ですが、小道があります。
途中で右に折れて尾根を登ります。
案内もなく、道という程もない山の中を歩きます。
とにかく比高は70mほどですから、高いところを目指していけば何とかなるのではないでしょうか。
尾根先の平らな所にでました。
南北にのびる曲輪です。その北から南へと進みます。あまり削平感はありません。中央に巨石があり、城として何か防御に利用したことだろうと思われます。
その向こうに小さいですが堀切が見えました。最初見た時は、感動したのですが、こうして写真で見ていると埋もれているのか堀が甘いですね。
それでも山城らしさを感じる景色です。
その先は主郭です。向かって右側に腰曲輪がのびていました。
主郭に上がります。ここにも巨石があります。
主郭は東西にのびます。あまり削平感はありませんが、ピークにこれだけの平らな土地があるのは、お城として利用された証しでしょう。
その奥は切岸としては甘いですが、段曲輪になっていました。
その先には、よく観察すると、竪堀のような遺構も見られました。
文献に記録が見られず、城として存在を危ぶむ声もあるようですが、私としては充分お城だと感じました。
腰曲輪があって、主郭が浮かび上がったような景色は、お城らしく感じさせてくれます。
1358二位谷奥付城(兵庫県) [城印象記]
三木合戦付城めぐりの続きです。
二位谷奥付城(にいだにおくのつけじろ)と呼ばれるものは3つあります。まず、二位谷奥付城Cです。
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位置するのは丘陵状の斜面です。途中に駐車場があります。
遺構の削平地を利用しているのかもしれません。その丘側には、土塁らしき盛り上がりを感じたりしましたが、果たしてどうでしょう。
そこから150m程北上したところには二位谷奥付城Bがあります。
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ここも丘陵の途中に削平地と思われる場所がありました。
城の名残を感じることはできますが、構造などを読み取るのは無理ですね。
地図と資料を確認しながら、丘陵上の小道を歩きます。
途中には二位谷土塁Aという遮蔽土塁もあります。藪でとても確認はできません。藪を踏み込んでも、起伏を確認するのは難しいでしょう。
しかし、藪ならば遺構が残っている可能性はあります。藪がきれいに無くなってしまうと、開発の手が伸び、更地になって遺構が消滅してしまうおそれもあります。そう考えると、薮状態も許せるでしょうか。
丘陵上の小道を続けて歩きますが、実はこの道が本来あった道というか、旧道でして、この道を歩いて考察できたのはよかったです。
旧道 義経みちの案内図
この道は古い白川街道といわれ、寿永3年(1184)820年程前に源平一の谷合戦の折、京都より三草を経て鵯越へ義経軍が通った道であると伝えられております。その街道の名残がこの道である。
------------------------------------------------------------
この旧道沿いに付城が並んでいます。
二位谷奥付城Bから北西400m程の地点、この丘陵の上の小道が、谷を走るきれいな新道と合流するあたりに二位谷奥付城Aがあります。
より大きな地図で蔓草マップ を表示
資料本には「曲輪の周囲を完全に土塁が囲続し、土塁の高さも高く」と説明がありました。この付城たちは三木合戦3期のものになり、中でもこのAは三木城最前線のひとつになります。期待して訪れた付城でした。しかし、そこには何もありませんでした。
城を見にいって、何か遺構があっても何もないと言われることは多いのですが、ここは本当に何もありません。発掘調査はされたようですが、その後の開発で消滅したのでしょう。
残念です。
仕方ない事情もあることでしょうが。
その場の風景をカメラに収めて、さよならしました。
二位谷奥付城(にいだにおくのつけじろ)と呼ばれるものは3つあります。まず、二位谷奥付城Cです。
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位置するのは丘陵状の斜面です。途中に駐車場があります。
遺構の削平地を利用しているのかもしれません。その丘側には、土塁らしき盛り上がりを感じたりしましたが、果たしてどうでしょう。
そこから150m程北上したところには二位谷奥付城Bがあります。
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ここも丘陵の途中に削平地と思われる場所がありました。
城の名残を感じることはできますが、構造などを読み取るのは無理ですね。
地図と資料を確認しながら、丘陵上の小道を歩きます。
途中には二位谷土塁Aという遮蔽土塁もあります。藪でとても確認はできません。藪を踏み込んでも、起伏を確認するのは難しいでしょう。
しかし、藪ならば遺構が残っている可能性はあります。藪がきれいに無くなってしまうと、開発の手が伸び、更地になって遺構が消滅してしまうおそれもあります。そう考えると、薮状態も許せるでしょうか。
丘陵上の小道を続けて歩きますが、実はこの道が本来あった道というか、旧道でして、この道を歩いて考察できたのはよかったです。
旧道 義経みちの案内図
この道は古い白川街道といわれ、寿永3年(1184)820年程前に源平一の谷合戦の折、京都より三草を経て鵯越へ義経軍が通った道であると伝えられております。その街道の名残がこの道である。
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この旧道沿いに付城が並んでいます。
二位谷奥付城Bから北西400m程の地点、この丘陵の上の小道が、谷を走るきれいな新道と合流するあたりに二位谷奥付城Aがあります。
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資料本には「曲輪の周囲を完全に土塁が囲続し、土塁の高さも高く」と説明がありました。この付城たちは三木合戦3期のものになり、中でもこのAは三木城最前線のひとつになります。期待して訪れた付城でした。しかし、そこには何もありませんでした。
城を見にいって、何か遺構があっても何もないと言われることは多いのですが、ここは本当に何もありません。発掘調査はされたようですが、その後の開発で消滅したのでしょう。
残念です。
仕方ない事情もあることでしょうが。
その場の風景をカメラに収めて、さよならしました。
1357二位谷土塁B福井城山土塁福井土塁M(兵庫県) [城印象記]
三木合戦付城めぐりは続きます。
三木合戦は、長期にわたる兵糧攻めで有名ですが、その戦いもおよそ3期に区分され、川を挟んで北側に対陣した1期、南側に毛利からの兵糧道を遮断し囲みを強化した2期、更に陣を進め三木城近くに対陣した3期、それぞれの付城が残っています。
2期には付城の間に遮蔽土塁が多重に細かく築かれました。
(と言うか、遮蔽土塁を管理するように付城が築かれたのかもしれません。)
そんな遮蔽土塁も丹念に見てまわります。
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本来、道路を横切るようにして土塁があったそうですが、道路西側にその名残のような遺構が見られます。二位谷土塁Bと呼ばれるものです。
その南西方面に進むと福井城山土塁です。
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道路と駐車場の境に区切りがあります。もともと遮蔽土塁は低いものですから、これが遮蔽土塁の名残でも全然不思議ではありません。仲間たちと、遮蔽土塁発見!と言いあっていました。マニアックさ極まるって感じでしょうか。
(どのくらい正しいかは眉唾モノかもしれませんが・・・。)
更に南、工場の南側には福井土塁Mです。
地図を広げると、このブログで紹介したものだけでも南側の防御ラインが浮かび上がってくるようです。
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こちらの遺構は良好に残っています。
資料によって遺構を推定し、遺構によって資料の確かさを確認する、そんな付城めぐりでしょうか。先人の資料は有難いものです。
三木合戦は、長期にわたる兵糧攻めで有名ですが、その戦いもおよそ3期に区分され、川を挟んで北側に対陣した1期、南側に毛利からの兵糧道を遮断し囲みを強化した2期、更に陣を進め三木城近くに対陣した3期、それぞれの付城が残っています。
2期には付城の間に遮蔽土塁が多重に細かく築かれました。
(と言うか、遮蔽土塁を管理するように付城が築かれたのかもしれません。)
そんな遮蔽土塁も丹念に見てまわります。
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本来、道路を横切るようにして土塁があったそうですが、道路西側にその名残のような遺構が見られます。二位谷土塁Bと呼ばれるものです。
その南西方面に進むと福井城山土塁です。
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道路と駐車場の境に区切りがあります。もともと遮蔽土塁は低いものですから、これが遮蔽土塁の名残でも全然不思議ではありません。仲間たちと、遮蔽土塁発見!と言いあっていました。マニアックさ極まるって感じでしょうか。
(どのくらい正しいかは眉唾モノかもしれませんが・・・。)
更に南、工場の南側には福井土塁Mです。
地図を広げると、このブログで紹介したものだけでも南側の防御ラインが浮かび上がってくるようです。
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こちらの遺構は良好に残っています。
資料によって遺構を推定し、遺構によって資料の確かさを確認する、そんな付城めぐりでしょうか。先人の資料は有難いものです。
1356小林八幡神社付城(兵庫県) [城印象記]
兵庫県三木市別所町小林の小林八幡神社付城を紹介します。
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舌状丘陵先端に位置し、北の三木城とは低地を挟んだ地形になります。
三木合戦時2期に築かれた付城です。
現在は江戸時代中期に祀られた八幡神社があります。
神社東側には土塁が良く残り、曲輪が想像されます。
土塁が二重になりしっかりした守りが見てとれます。
西の方は道路開発等で遺構が失われているようですが、堀があったのかなあというような地形でした。
周囲には遮蔽土塁である福井土塁が多重に点々とあり、拠点にはこうした付城を配備した様子がわかります。
もう少し遺構が整備されていればいいのに、と思う点もありますが、いたしかたないでしょうか。
神社本殿に向かう参道も途中が下がっています。もうすっかり城遺構ではないのですが、おそらくここに堀があったのではと思わせる地形でした。
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舌状丘陵先端に位置し、北の三木城とは低地を挟んだ地形になります。
三木合戦時2期に築かれた付城です。
現在は江戸時代中期に祀られた八幡神社があります。
神社東側には土塁が良く残り、曲輪が想像されます。
土塁が二重になりしっかりした守りが見てとれます。
西の方は道路開発等で遺構が失われているようですが、堀があったのかなあというような地形でした。
周囲には遮蔽土塁である福井土塁が多重に点々とあり、拠点にはこうした付城を配備した様子がわかります。
もう少し遺構が整備されていればいいのに、と思う点もありますが、いたしかたないでしょうか。
神社本殿に向かう参道も途中が下がっています。もうすっかり城遺構ではないのですが、おそらくここに堀があったのではと思わせる地形でした。
1355福井遮蔽土塁(兵庫県) [城印象記]
兵庫県三木市別所町小林の福井遮蔽土塁を紹介します。
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小林八幡神社に小林八幡神社付城があるのですが、その周囲にも点々と遮蔽土塁があります。三木合戦時2期に築かれた毛利援軍の補給路を断つ土塁です。
地図では福井土塁Hの位置をポイントしました。
これではわかりにくいので、マッピングした地図の画像をあげると、遮蔽土塁と付城はこんな感じです。
丹念にひとつひとつを訪ね、チェックしていくことで、当時の三木城周辺が彷彿として描かれていくような気がします。
こちらは、福井土塁Hになります。神社鳥居の横です。
マッピング地図を確認しながら、こちらも遮蔽土塁と確認。福井土塁Iです。
途中に折れのある土塁です。
土塁の高さは低いです。けれど、今まで見てきた付城や遮蔽土塁のことを考えれば、これで正解でしょう。でも、初めて見たら、土塁とはなかなか思えないのではないか、というより、史蹟保存されているのか、というような状態でもありました。
お墓のある奥の仕切りが福井土塁Jです。
ちゃんと探せばわかる今のままがいいです。開発に飲み込まれて欲しくないですね。
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小林八幡神社に小林八幡神社付城があるのですが、その周囲にも点々と遮蔽土塁があります。三木合戦時2期に築かれた毛利援軍の補給路を断つ土塁です。
地図では福井土塁Hの位置をポイントしました。
これではわかりにくいので、マッピングした地図の画像をあげると、遮蔽土塁と付城はこんな感じです。
丹念にひとつひとつを訪ね、チェックしていくことで、当時の三木城周辺が彷彿として描かれていくような気がします。
こちらは、福井土塁Hになります。神社鳥居の横です。
マッピング地図を確認しながら、こちらも遮蔽土塁と確認。福井土塁Iです。
途中に折れのある土塁です。
土塁の高さは低いです。けれど、今まで見てきた付城や遮蔽土塁のことを考えれば、これで正解でしょう。でも、初めて見たら、土塁とはなかなか思えないのではないか、というより、史蹟保存されているのか、というような状態でもありました。
お墓のある奥の仕切りが福井土塁Jです。
ちゃんと探せばわかる今のままがいいです。開発に飲み込まれて欲しくないですね。
1354高木大塚城(兵庫県) [城印象記]
兵庫県三木市別所朝日ヶ丘の高木大塚城を紹介します。
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三木合戦時の付城で2期に築かれたものになります。補給路を断つ遮蔽土塁を伴っています。
先日紹介した高木大山付城の北西500mの位置です。
コミュニティバスの停留所があり、すぐその横に遺構が見えます。
数ある付城遺構の中でも、手軽に、割とはっきりわかると思います。
土塁ラインもくっきりです。
虎口もよくわかります。
中央は櫓台のような土塊になっていますが、これは古墳を利用したものだそうです。
それを土塁が取り囲んでいます。折れの多い縄張は技巧的です。
三木城付城群は、低い土塁ばかりなので見栄えのしないものが多いですが、ここは写真映えしますかね。
また近くには、遮蔽土塁も残っています。
この付城の東南東方向に、手前を通っている道路を挟むようにして土塁が確認できます。
まず北側の遮蔽土塁。この画像だと道路の土手で、土塁の感じはしないのですが、端まで歩いて、裏をのぞいたりすると、やっぱり土塁かぁとわかります。
その向かいの南側です。遮蔽土塁です。
もっともその気になれたのは、よい資料と同行者のお陰です。ありがとうございました。
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三木合戦時の付城で2期に築かれたものになります。補給路を断つ遮蔽土塁を伴っています。
先日紹介した高木大山付城の北西500mの位置です。
コミュニティバスの停留所があり、すぐその横に遺構が見えます。
数ある付城遺構の中でも、手軽に、割とはっきりわかると思います。
土塁ラインもくっきりです。
虎口もよくわかります。
中央は櫓台のような土塊になっていますが、これは古墳を利用したものだそうです。
それを土塁が取り囲んでいます。折れの多い縄張は技巧的です。
三木城付城群は、低い土塁ばかりなので見栄えのしないものが多いですが、ここは写真映えしますかね。
また近くには、遮蔽土塁も残っています。
この付城の東南東方向に、手前を通っている道路を挟むようにして土塁が確認できます。
まず北側の遮蔽土塁。この画像だと道路の土手で、土塁の感じはしないのですが、端まで歩いて、裏をのぞいたりすると、やっぱり土塁かぁとわかります。
その向かいの南側です。遮蔽土塁です。
もっともその気になれたのは、よい資料と同行者のお陰です。ありがとうございました。
1353高木大山付城(兵庫県) [城印象記]
1351シクノ谷峯構付城(兵庫県) [城印象記]
兵庫県三木市福井のシクノ谷峯構付城を紹介します。
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昨日紹介した明石道峯構付城の西500mに位置します。連続して付城めぐりをすると、連携して防御している様子が実感されていきます。
史跡マップがありました。ここで三木合戦など確認しておきましょう。
三木合戦
戦国時代の終わりごろ、織田信長から播磨平定の命を受けた羽柴(豊臣)秀吉が、東播磨を治めた三木城主別所長治を攻めた戦で、天正6年6月から天正8年1月(1578-80)までの約1年8か月に及ぶ兵糧攻めが行われました。別名「三木の干殺し」とも呼ばれる悲惨な戦いで、城主長治は、飢えに苦しむ城内の人々の命を救うため、自害し開城しました。
三木城攻め付城群
三木城を兵糧攻めにするため、秀吉は平井山に本陣を築くとともに、三木城を包囲する30余りの付(陣)城を築き、三木城への兵糧搬入や援軍を完全に遮断しました。
江戸時代に編集された地誌「播磨鑑」や絵図「三木城地図」などに、これらの付城群の記載が見られます。
400年以上を経過した今も約半数の付城が残っています。
○シクノ谷峯構付城
この付城は、三木城を兵糧攻めにするため築かれた30余りの付城の一つで、絵図「三木城地図」に描かれていましたが、ホースランドパーク建設事業に伴って所在が確認されたものです。「宿の谷」と呼ばれる谷に張り出す尾根の先端部に築かれていることから、谷の名前に由来し「シクノ谷峯構」と呼んでいます。
曲輪は、主郭と腰郭から構成され、主郭は四方を土塁で囲んだ東西約45m、南北約25~40mの規模で、南端の土塁中央部には約5×6mの方形の櫓台を築き、北西隅と北東隅の2か所に虎口(出入り口)を設けています。北東隅の虎口から続く腰曲輪は、主郭のような土塁囲みはなく、削平などの整地により平坦部を造り出しています。
主郭、腰郭を合せた付城の範囲は約3,000m2で、西に隣接する平坦部を含めると約4,600m2となっています。
なお、この付城を守った武将については、残念ながら分かっていません。
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とはいうものの、シクノ谷峯構付城についての案内は特にありません。あたりをつけて山の中に踏み込みます。比高は25m、丘の先になります。
土塁が見えてきました。史跡マップにあったように、まさに「自然の中で歴史とふれあう」という状況です。
暗くなりかけた林の中を、土塁、櫓台、虎口など確認しました。遺構は残っていますが、見慣れてないと判じ難いでしょうか。縄張図を持ちながら、日没までの時間を惜しむように歩き回りました。
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昨日紹介した明石道峯構付城の西500mに位置します。連続して付城めぐりをすると、連携して防御している様子が実感されていきます。
史跡マップがありました。ここで三木合戦など確認しておきましょう。
三木合戦
戦国時代の終わりごろ、織田信長から播磨平定の命を受けた羽柴(豊臣)秀吉が、東播磨を治めた三木城主別所長治を攻めた戦で、天正6年6月から天正8年1月(1578-80)までの約1年8か月に及ぶ兵糧攻めが行われました。別名「三木の干殺し」とも呼ばれる悲惨な戦いで、城主長治は、飢えに苦しむ城内の人々の命を救うため、自害し開城しました。
三木城攻め付城群
三木城を兵糧攻めにするため、秀吉は平井山に本陣を築くとともに、三木城を包囲する30余りの付(陣)城を築き、三木城への兵糧搬入や援軍を完全に遮断しました。
江戸時代に編集された地誌「播磨鑑」や絵図「三木城地図」などに、これらの付城群の記載が見られます。
400年以上を経過した今も約半数の付城が残っています。
○シクノ谷峯構付城
この付城は、三木城を兵糧攻めにするため築かれた30余りの付城の一つで、絵図「三木城地図」に描かれていましたが、ホースランドパーク建設事業に伴って所在が確認されたものです。「宿の谷」と呼ばれる谷に張り出す尾根の先端部に築かれていることから、谷の名前に由来し「シクノ谷峯構」と呼んでいます。
曲輪は、主郭と腰郭から構成され、主郭は四方を土塁で囲んだ東西約45m、南北約25~40mの規模で、南端の土塁中央部には約5×6mの方形の櫓台を築き、北西隅と北東隅の2か所に虎口(出入り口)を設けています。北東隅の虎口から続く腰曲輪は、主郭のような土塁囲みはなく、削平などの整地により平坦部を造り出しています。
主郭、腰郭を合せた付城の範囲は約3,000m2で、西に隣接する平坦部を含めると約4,600m2となっています。
なお、この付城を守った武将については、残念ながら分かっていません。
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とはいうものの、シクノ谷峯構付城についての案内は特にありません。あたりをつけて山の中に踏み込みます。比高は25m、丘の先になります。
土塁が見えてきました。史跡マップにあったように、まさに「自然の中で歴史とふれあう」という状況です。
暗くなりかけた林の中を、土塁、櫓台、虎口など確認しました。遺構は残っていますが、見慣れてないと判じ難いでしょうか。縄張図を持ちながら、日没までの時間を惜しむように歩き回りました。