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1432長原城(三重県) [城印象記]

三重県度会郡度会町長原の長原城を紹介します。

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 長命寺と長原神社の間に長原公民館があります。こちらの駐車場を利用させていただきました。

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 こちらは長原神社です。まずは参拝。

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長原城へは、神社の右から道があります。

そこに長原城主であった大崎玄蕃の事蹟が説明されていました。

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  長原城主大崎玄蕃頭(守)

 今より450年余前、後奈良朝・室町将軍は足利義晴から義輝のころ、世は国盗りの動乱止まらず、この地も南勢五郡に組みする北畠氏(国司)の配下にあり田丸(玉丸)城を始め、郷も人もたたかいの不安に明け暮れていた。このころ、豪士大崎玄蕃はここ北山の浅間山上に守閣(砦館)を構え、20年余(年数不詳)居城し、弘治2年(1556)2月に没している。
 玄蕃はこの長原(当時は永原)をこよなく愛し、慈政の中にも諸制は厳しく、旧弊をあらため、更に長原池造成の大事業をなしとげて治水の万全をはかり、生業発展と民生安定に大いなる治績を収めた。この郷に、当時呼ばれていた場所名、殿倉屋敷、本陣、垣内(北野口)、殿屋敷、籠建場、旦城等々の多くが今も語り伝えられている。
 なお、玄蕃は城の麓に慈光山長命寺を草創して菩提寺となし、自ら大旦那として住民とのふれあいを深めた。位牌「従前槙起大居士」の裏書きに、弘治元年の詠と思われる歌「わが領地 見わたす四方の 山々は 高き低きも長原の里」とあり、愛領の心が偲ばれる。
 この城の石垣は天保6年(1835)ごろ、大洪水による池決壊の大修理に使われ現存しない。敗合山には多くの岩石が積まれていたという。

  昭和54年(1979)城址に顕彰碑を建之  長原老人クラブ

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約10分ほど、1本道で登れます。

主郭手前です。

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主郭です。削平されています。

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周囲は若干高くなっていて、土塁の名残が感じられます。

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碑です。長原老人クラブは、この碑を建てた訳ですね。

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ほぼ単郭といっていい構造です。一段下には帯郭が見られます。

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この主郭をとりまく周囲にはいろいろな遺構が見られます。

帯郭を区切るこの竪堀は強烈です。

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北東方面の尾根を断ち切る二重堀切。

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そして極めつきが東方面の畝状竪堀です。数えると4条が確認できます。

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登りやすく、コンパクトで、見所が揃っている、これはお勧めの中世山城ですね。手応え充分で帰路に着きます。

そういえば登城路のこの尾根道に遺構が見られないのが、かえって不自然に思われました。

上の祠の参拝路として堀切が埋められてしまったのかもしれない、と想像したりしました。

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1431五ヶ所城(三重県) [城印象記]

三重県度会郡南伊勢町五ヶ所浦字城山の五ヶ所城を紹介します。

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城の西に愛洲の館があります。この辺りは公園にもなっおり、駐車場があって便利です。

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鍛錬の段という階段があります。比高は30mほどですから、厳しいというほどの山城ではないですが、視覚的に山城を感じられます。

でも、階段だから助かりますね。

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二の曲輪から回り込んで主郭を目指します。

ああ、きれいに整備されていますね。

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二重の横堀で守られています。

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主郭には城址碑と説明板がありました。

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  五ヶ所城と愛洲(あいす)氏

 660余年の昔、南北朝時代といわれる時代がしばらくつづきました。
 五ヶ所城は、南朝の忠臣愛洲公一族の城で、愛洲城ともいわれ、土地の者は愛洲さんと呼んで、大切にしてきました。
 愛洲氏は古くからここに城をかまえ、南北朝の頃には、国司北畠氏と共に、伊勢地方に勢力を張り、熊野水軍と結んで、田丸や一之瀬に進出、大いに活躍しました。功により伊勢の守護職となり所領を受けて、神宮のうしろだてとなりました。
 一族は長くこの地を本拠地として、威を振るいましたが、天正4年(1576)北畠氏(織田信雄)の軍に攻められて滅亡しました。
 現在、城址と丘の南面の、居館址や塔頭(墓所)が残っております。中世の山城をしのぶ遺構として貴重なもので、昭和13年県史跡の指定をうけました。
 愛洲移香齋久忠(1452-1528)は、530余年前、この地に生まれました。
 成人として九州鵜戸の岩屋にこもり、剣の奥義を悟って、愛洲影流をひらき、天下に広めました。日向守愛洲太郎左衛門久忠と名乗り、移香齋と号して所領をうけました。
 愛洲影流は、上泉伊勢守信綱により、新陰流となり、柳生石舟齋の柳生新陰流をはじめ200余流の源流となり、移香齋は剣祖としてあおがれています。

  昭和59年8月吉日

    塔頭大念仏(8月16日)/剣祖祭(8月第3日曜日)
    愛洲顕彰会/愛洲移香齋顕彰会/南勢町建立

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主郭の中心、やや盛り上がったところには「剣祖愛洲移香斎生誕之里」とあり、大きな「愛洲公顕彰碑」が建っています。

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主郭背後には堀があります。

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こちらは、それを横から見たところです。

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主郭の切岸をよく見ると、石が埋まっているところもあります。

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主郭まわりの遺構が明瞭にわかって愉しいですね。

二重になった空堀が撮れないかと斜面から頑張ってみました。堀を区切る土塁がわかると思いますが、竹藪で思うほどには撮れませんでした。

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ひと通りの探索を終え、南へ下ります。ゆるやかな斜面です。

遠くに海が見えます。

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ふもとは居館跡もあります。

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愛洲氏の墓所という塔頭へも足を運びました。

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  塔頭(たっちゅう)(県指定史跡地)

 五ヶ所城主愛洲氏の墓所
 今、五輪塔20数基が眠り、中に永正18年(1521)、享禄4年(1531)、永禄(1558-)等のものがある。
 土地では8月16日(古くは旧7月)、初盆の霊の供養に先立って、ここで念仏するのを常としている。

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小さな五輪塔がいっぱいあります。

厳かな気持ちになりました。

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1430地点Aと地点Bの距離を求める

位置情報(緯度経度)を Excel で管理している。必要な情報を選択して、地図に落とし込んで利用している訳であるが、Excel でもう少し何か使えないか考えてみた。

距離ってわからないだろうか、わからないだろうな、と漠然と思い込んでしまったが、ふと気が付いた。座標上の特定される2点間なのである。わからないはずがない。

ピタゴラスの定理! これだ。a2×b2=c2

ちょっと懐かしくなってしまったが、直角三角形の斜辺外のそれぞれを2乗したものの和は斜辺の2乗したものに等しいというやつである。

2つの位置情報の緯度差・経度差は引き算をすればわかることで、その差が10ならば、10/360ということで、地球1周と掛ければ、その距離は出る。

緯度の距離と経度の距離がわかれば、斜辺にあたる「地点Aと地点Bの距離」は計算で出るはずだ。

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あきらめちゃいけないよね。

関係さえきちんとわかれば Excel なら計算はすぐだ。

ちょっとした例で12現存天守の一覧で計算させてみた。

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自宅がわりにくうくうアイコンの岡崎城からの距離を計算させた。

E4にはこんな式が入っている。

  E4=SQRT(((40009/360*(C4-$C$2))^2)+(((40075/360*(D4-$D$2))^2)))

SQRTは平方根を求める関数である。
地球1周は40,000kmである(本来4万分の1を1kmと決めた経緯がある)が、現在の実際の計測では、赤道での一周は約40,075km、南北での一周は約40,009km、だそうで、その数値を利用してみた。

E列はコピペして利用すればOKで、一旦作業用の台帳を作れば、2行目のデータに対しての距離一覧表がささっとできてしまう。

そして、距離による並べ替えもささっとできてしまう。

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計算する労力は問題ではなく、AならBに必ずなるという因果関係を見つけることが大切という、Excelのポイントを再確認した案件だ。

それにしても、ささっと計算できる位置情報間の距離であるが、これをどう活用するか、それこそ大切な問題だ。

便利なんだけど活用方法がないんだ、とならないよう工夫してみなくては。

下の表は、基準となる位置を稚内市役所としたものである。北の果て、などと失礼な説明書きで申し訳ない。狙ったのは、一番北の位置からの距離順に並べることで、12現存天守を北から順に並べぶのを期待して作ったものである。

最初の表の並び順は日本100名城が基準となっているが、それとは若干違う。

位置情報の並び順をただ北から順に並べると不自然なものになってしまうけれど、これなら機械的に、自然な感じに並び替えれる、だろうか。

活用法をいろいろと試してみたい。

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1429高政陣屋(和歌山県) [城印象記]

和歌山県和歌山市江南の高政陣屋を紹介します。

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手軽にもう一城と思ったら渋滞と周辺は細い路地でちょっと苦労しました。安全運転を心掛けないといけません。

高政陣屋は大林寺の場所になります。門前には2台分の駐車場があります。

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ごく普通のお寺さんです。城遺構は見られません。

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ここは紀伊守護畠山高政の居館があったそうです。

戦国時代まっただ中、畿内を舞台に活躍した武将です。三好氏との抗争に明け暮れました。一進一退の攻防で、結局は報われず、失意の内に没しました。

大林寺はその畠山高政が開いたお寺と言うことで碑があります。

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詳しいことはそれ以上にわからないので、後は妄想するばかりです。お寺の横から背後に掛けて小川が流れています。ここは、微高地のようです。

暮れなずむ夕陽をながめ、戦国の昔を想像しました。

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1428手取城(和歌山県) [城印象記]

和歌山県日高郡日高川町和佐の手取城を紹介します。

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山を抜ける細い道があります。この道を進むと、手取城に向かう道の入口があります。「手取城址登り口1.2km」と案内があります。「手取城址駐車場450m」という案内もあります。

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手取城の案内もあります。

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日高川町指定文化財 手取城址

 手取城址は、別所谷奥の城山(標高171m)の山上に築かれた本丸、東の丸、二の丸、西の丸、空堀などをもつ城址である。
 丸山城の湯川氏と並ぶ玉置氏は、累代この城に拠って、日高川沿岸の諸村、一万数千石を領した。
 天正13年(1585)秀吉の紀州進攻ら際に落城したが、その規模は極めて大きく(東西500m、南北150m)、遺構の保存状態も良いことから、中世城郭として極めて高く評価されている。

       手取城址保存会

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この先の道は狭いので、ちょっとためらいます。と言って付近に余白地もありません。ここは進むしかないですね。1車線幅ですれ違いはできません。登って曲がっていますから、路肩に脱輪しないよう気を付けてください。

駐車場が見えてきました。駐車場は数台停めれます。

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この道は東の丸まで繋がっています。ですから、お城直下まで行けないことはないですが、少しづつ道もメンテナンスの悪い部分もあったりしますので、ここは素直にここに停めた方がよいです。

それにもうちよっと行くと、お城の遺構は始まります。

駐車場から250m進んだところに「古城街道」の碑と空堀が見えます。

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お城の南の下を通って反対の東の丸へ上がる訳です。

途中、堀切などの遺構が見られます。ワクワクです。

今はすっかり笹薮で埋まっていますが、こちらは溜池と言われるところです。

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東の丸に着きました。

手取城はよく整備されていて、主な見学場所はハイキング気分で見て回ることができます。

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でも、それだけでは満足しません。縄張図を片手に薮の中も突入です。東の丸の先端から藪に入ると、一段下に曲輪があって、その先に堀切があります。薮の中に明瞭な遺構を見ると感動します。

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再び、東の丸にもどって、さあ、主郭を目指します。

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主郭に隣接するニの丸に城址碑があります。

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主郭下、南に広がる二の丸です。

さすが南紀、暖かい日差しが春のようでした。

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西の丸を遠望したところです。うららかです。

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主郭は北側の登ったところで、山頂を中心とした削平地です。ここは、そんなには広くはありません。

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主郭の北側にも遺構は展開します。

その法面には石が多く見られます。手取城は基本的には土の城ですが、ところどころ補強と思われる石積みがありました。

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その先は下ります。

堀切がしっかりありました。見事です。

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切岸としても高いです。

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この先、少しづつ規模は小さくなりますが堀切が3つ、併せて4つの堀切です。固い守りです。この北側の探索が、一番よかったかな。

再び主郭へ戻り、二の丸へと降り、西の丸を目指します。

縄張りが俯瞰できる景色がいいですね。

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西の丸とを区切る堀切です。こちらは、整備されていて凹みが確認できます。ただこうしてみると、あっけなくて、薮の中の堀切の方が何か変ですが、魅力的に感じました。

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西の丸です。

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西の丸の突端にあるのろし台です。

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西の先にも堀切などの遺構が続きます。帰っていく方向にもなるので、薮でありかなりの斜面ですが、強行して降りてみました。

ここも素敵な堀切です。

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薮の中にこんなにも明瞭に堀切があるのです。

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縄張図を片手に探索し甲斐いのある山城でした。

最後は尾根を切る堀切を伝わって南の下を通る道に降りました。最初来た道です。楽しかったです。

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1427青巌寺の扁額(三重県津市) [扁額]

三重県津市一志町小山の青巌寺です。

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浄土真宗高田派のお寺です。

山門をくぐると本堂ですが、立派な本堂です。1692(元禄5)年の建立です。

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尾張藩2代藩主徳川光友が寄進しました。

というのも、光友が側室に産ませた義昌をこの青巌寺に預け育ててもらった経緯があるからで、その後、義昌は陸奥梁川藩主となっています。そういったことに感謝してのことでしょう。

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扁額は大きなものでした。存在感のある文字で、誰が揮毫したか気になりましたが、わかりませんでした。

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1426真田庵(和歌山県) [城印象記]

和歌山県伊都郡九度山町九度山の真田庵を紹介します。

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現在の善名称院が真田庵と呼ばれています。関ヶ原の戦いで敗軍の将となった真田昌幸・信繁が流された九度山にあります。その蟄居生活には諸説あるようですが、真田ファンの聖地として、今や善名称院がその晩年を過ごした場所に定まっているようです。

周辺の路地は狭いので、近くの道の駅柿の郷くどやまに駐車して散策するのがいいですね。

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歩いて7、8分ほどです。案内があるので迷うことはないと思います。

南側の長屋門のようなところから入りました。

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武家の過ごした屋敷・居館を防御施設も見られることから、お城の仲間として括るのですが、ここはそんな要素は少ないですね。やはり真田関連の故地ということでの訪問が多そうです。

信繁が屋敷に落ちた雷をとりおさえて封じ込め里人を救ったという井戸です。

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こちらはこの屋敷で亡くなった昌幸のお墓です。

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その隣には真田氏を祀った社です。

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そして向かいには、善名称院の本堂です。城郭風の屋根の重なりがいい雰囲気です。八棟造りというのだそうです。

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北の門へと抜けました。

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見学としては、少しあっけなく感じましたが、真田ファンには、是非訪れたいところだと思いますよ。

界隈も少し歩いてみました。

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真田の抜け穴です。実は天井石がなくなった古墳だそうです。

ここから大坂城へ抜けれるはずがないですが、そんな伝承があることがなんだかワクワクさせます。真田十勇士、猿飛佐助、霧隠才蔵・・・なんて世界を思い出しました。

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最後には真田ミュージアムに寄りました。まだ新しいです。

9-17時の開館で入場料は500円です。よくまとまっていて、ビジュアル的にも楽しく構成されています。なかなか見応えのある内容ですね。たっぷり楽しんできました。

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1425高田土居城(和歌山県) [城印象記]

和歌山県日高郡みなべ町気佐藤の高田土居城を紹介します。

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みなべICの近くになります。近過ぎて車をどう近づけたらいいのか、一瞬迷います。道路沿いに梅林があり、そこに説明板もありました。

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  みなべ町指定文化財 高田土居城跡

 室町時代、野辺氏は紀伊国守護であった畠の守護代として、南部荘を支配しており「高野山文書」・「御霊宮(現・須賀神社)棟札」・「堀籠氏系図」等で権勢が伺がえる。
 野辺氏の居城は、高田土居城の北方約2km、標高206mの平須山頂にあり、常時の館として南部平野のほぼ中央に高田土居城を築かれた。
 1998(平成10)年からの発掘調査によって、城郭は南北50m、東西70mの方形館を中心に、二重(一部三重)の外堀をもつ全国有数の巨大城郭で、15~16世紀に築城されたことが明確になった。

  2008(平成20)年1月 みなべ町教育委員会

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道路は居館城を斜めに通り抜ける具合だったそうですが、この自動車道とインターチェンジのお陰で遺構は破壊されてしまったことでしょう。

もっとも、そんな工事があったから、大々的に発掘調査もできて、説明板のようなこともよくわかったのかもしれません。

今、ちょっと見た感じは、土豪の小さな館があったのかなというところでしたが、全国有数の巨大城郭という規模が意外な感じを受けました。想像がつかないですねえ。詰め城を平須賀城としてのセットの居館城は大規模です。

多分、発掘した資料も残されていることでしょうから、一度拝読する機会を作りたいものです。

梅がほころびはじめた、南紀の初春でした。

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1424山安水産の牡蠣食べ放題 [グルメ]

昨年は行きず仕舞になってしまったのですが、今年は鳥羽浦村の牡蠣を食べに行ってきました。焼牡蠣、美味しいですよね。

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行ったのはパールロード店です。鳥羽市街から6kmほどで、浦村としてはまだ入り口といったあたりだと思います。お店は道沿いなのでよく目にしてました。ちょうど駐車することができましたが、すぐいっぱいになってしまいました。

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今ネットで見ると要予約とあります。気付かなかったので、予約なしで行ってしまいましたが、席に余裕があるのか、普通にOKいただきました。

営業時間11-16時、時間無制限、食べ放題大人2,000円です。

2,000円は比較的お安いのと自由そうな感じで選びました。

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グループで来られている方が多いです。

持ち込み自由で、ビール等のアルコールや飲料(自販機もあります)、調味料などを持参されているグループもありました。

私が通された席はこちらです。

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皆でワイワイやるのもいいですね。調味料はなくても全然OKですが、いろいろ味があると楽しいのかもしれません。また、焼きながら、飲みながら、これも楽しそうです。焼牡蠣は時折はぜます。けっこう強烈です。そんな爆発にキャアキャアと賑やかです。

こちらは、モクモクとさあ目いっぱい食うぞ、という体制です。

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席の横には、牡蠣の網かごです。どのくらいなのかな。もちろん食べ放題なので、おかわりができます。

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牡蠣の他に、牡蠣飯と味噌汁が付きます。最初にいただきましたが、いい出汁がでています、美味しかったです。

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実は自分で焼くというスタイルは初めてだったので、少し戸惑いました。コンロの上で焼くだけなので特別なことはないのですが、焼き加減の見計らいが難しいですね。

割った時、牡蠣がやや変色しかかっているくらいがいいそうです。焼きすぎてスミっぽくしてしまったり、まだ半生っぽかったりとバラツキもでます。というのも、牡蠣の大きさや形もけっこうまばらでした。

焼いて、割って、食べて、けっこう忙しいです。

大きな牡蠣が上手く焼けて、美味しく食べれるとうれしいですね。

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焼牡蠣ばっかりじゃ飽きる、と言って付き合ってくれる人がいないのですが、焼牡蠣おいしいですよ。私は飽きずにしっかりお代わりしてしまいました。

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食べ続けると、机のまわりが焼き飛び散った破片でいっぱいになり、口がちょっと海水を飲んだような潮辛さを感じるようになります。それが潮時ですかね。

1年に1回は思う存分食べてみたい焼牡蠣です。満足できました。

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1423根来寺根本大塔(国宝) [和塔]

根来寺根本大塔を訪れた。

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リベンジで訪れた。冬期(11-3月)は拝観は16時までである。前回は16時に間に合わなかった。

けっこう近くまで寄れるので、見るだけなら、それでも充分かという気もしたが、でもやっぱりもっと近くに寄りたい、内部にも入ってみたい。時間を都合して、立ち寄った。

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前回は根来寺の名前が先行し過ぎてとまどいも大きかったが、その点は勝手が呑み込めて訪れやすかった。まずは本堂だ。

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そして、その隣にあるのが目指す大塔である。

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そして、その隣前には1391(明徳2)年頃の建立という重文の大師堂があって、そのあたりが見学のメインになる。

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それぞれ見れば見るほど惹きつけられるのではあるが、やはり和塔ファンとしては、大塔の迫力に一番ぐっときた。

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   大伝法堂

根来寺を総括した本堂であります。中央に大日如来、左脇に金剛菩薩、右脇に尊勝仏頂尊を安置してあります。現在のお堂は享和元年(1801年)に再建、上棟されたものであります。

   大塔

最も中心となる建物で、根来寺全山の宗教的心髄であります。明応5年(1496年)の建立で多宝塔として規模も大きく、我国唯一の木造大塔でありまして、
明治三十二年以来国宝に指定されて居ます。

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大塔は、高さ40メートル、幅15メートルの日本最大の多宝塔。その迫力は、間近でみると更にパワーアップ。五重塔とは違った迫力だ。

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この大塔には内に入れて、古い木組みの具合も楽しめる。

でも、中央にはご本尊の大日如来さんが祀られている加減で内部の写真撮影はできない。残念だが現役のお寺ということで我慢しよう。

しかし、可能な範囲で写真撮りに没頭した。

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やはり近くで現物に触れるのは感動ひとしお。

これぞ国宝という大塔との幸せなひと時だった。

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